リンクをコピーしました

ホッブズの考えはこうだ。人間はそもそも平等である。それは平等の権利をもっているとか、平等に扱われなければならないとかいった意味ではない。人間など一人一人はどれも大して変わらないということである。

たしかに力の強い人間もいるし、反対に非常に力の弱い人間もいる。しかし、どんなに力が強い人間であっても、何人かで徒党を組んで立ち向かえば打ち倒せないほどではない。人間の間の力の差とはその程度のものである。体を動かせない人間ですら、仲間を集めて彼らに指示すれば、力の強い人間を押さえつけることができるだろう。人間の力比べは所詮ドングリの背比べの域を出ない。ホッブズはこのような人間の力の平等を議論の出発点とする。

ここから次のような帰結が導き出されることになる。人間がその力において大差ないとすると、人間はだれもが同じように同じものを希望すると予想されることになる。なぜなら、「あいつがあれをもっているなら、俺もそれをもっていていいはずだ」と思えるようになるからだ。これを〈希望の平等〉と言う。

[…]

ホッブズの考えでおもしろいのは、彼が平等を無秩序の根拠と考えているところだ。不平等なら秩序が自然に生まれる。だれがだれに従わねばならないかが明確であり、疑いようがないからだ。だが、人間の力は平等であり、たいした差はない。それ故に〈希望の平等〉が、そして無秩序が生じる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)

一般的なイメージとは異なり、生物の多様性の高い森というのは、自然状態では長続きしない。「自然の摂理」によって、どのような森もやがて単層林に近づき、そして最終的には荒れ地になる。そしてまた、徐々に動植物が集まり、森が再生していく……というサイクルを繰り返す。したがって同じエリアで長期に生物多様性の高い「豊かな森」を維持するためには、むしろ人間の介入によるメンテナンスが必要なのだ。

アメリカの環境系ジャーナリストとして知られるエマ・マリスはこうした積極的な人間の自然環境への介入を支持する。そして旧来の「手つかずの自然」を崇拝する環境保護論を批判する。彼女の述べるところによれば、そもそも「手つかずの自然」という発想は、大きな矛盾を孕んでいる。人間の影響がゼロの「自然」を想定するのならば、それは人類発生以前の自然への回帰を考えなければいけなくなる。人類の発生から現在までには人間の介入とは無関係な変化も含め地球上の生物はかなり入れ替わってしまっている。では、「手つかずの自然」を信奉する人々はどの時点の状態に戻せと言うのか、と。仮に人類発生以前の自然に「戻す」なら地球を氷期と間氷期を反復する更新世にまで戻す必要がある。

マリスは結論する。「手つかずの自然」とは二十世紀アメリカの消費社会の中で成立したカルト的な信仰に過ぎない、と。消費社会のロマンチックな外部として、実際の地球環境の実情を考慮されずに求められた観念的なものに過ぎない、と。

宇野常寛『ラーメンと瞑想』(集英社、2025年)