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都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。

つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)

これまで「意図の誤謬」(Intentional Fallacy)や「作者の死」(La mort de l'auteur)の名の下に、芸術家の意図は批評行為から排除されてきた。「誤読の権利」や「読みの多様性」と称して、作家の思想を恣意的に排除する身振りは、あまりにも怠慢であったと自省しなければならない時期にきている。作家のコード化のプロセスもまた作品を見極める重要なポイントに違いないからだ。

ただし、意図が表現に明確に反映されている場合もあれば、それを裏切って異なる表現が成立していることもあるだろう。むしろ作者が語り得なかったこと、あるいは作家の無意識的な実践のほうに芸術批評の営為は向けられるべきである。真に創造的な表現者は、意図やコントロールを超越したところで優れた作品を産み落とす。作品には(無意識的に)厖大な日常経験や偶発性が投影されているのだ。それを見逃すことなく作品の細部を見出すこと。そして作品が生成する歴史的条件=コンテクストにも目を配ること。そうすることで作品の内部に思いがけない作家の実践を発見し、作品を捉え直すことができると同時に、予想だにしない作品同士が共鳴し始めることだろう。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)