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最近、食べかけの食事の写真ばかり撮っている。

食べる側にとって、食事のピークは決して盛り付けられた瞬間ではない。そこから食べ進め、形が崩れていくプロセスこそが行為の核心なのだから、そこを写真に残す方がおもしろいな、と気づいたのだった。

食べかけの皿を眺めていると、誰かがそこにいて、空腹を満たすような幸せな時間を過ごしたことが想像できる。それがとてもいい。

昨日書いたブログを読んだ友人から、「Onga9」を作っているのはてけしゅんだよ、というLINEがあった。つよすぎる。勘弁してくれ。

メールをチェックしていたら、「yoyn」のアップデート情報が届いていて、レビュー機能(星をつけるやつ)がなくても投稿できるようにしました!と書かれていた。ちょ……それはまったくシッカリ競合しますやん。また、お金を払ってサービスを支えるサポーター機能もリリースしたとのこと。これはまさに今作っているChooningのリニューアル版に実装していた機能で、完全に先を越されている。

もともと、ビジョンに「yoynは、音楽をただ消費するだけでなく、聴き終えた後の『余韻』を言葉にして共有するための場所です」と書かれていたので、根本にある思いはChooningと近いんだろうなと思っていた。そしてそれは批評とかレビューとは相性が悪いんじゃないかなあと思っていたのだけど、恐ろしいスピードでアプローチを修正してきている。

唯我くんからのLINEで、「yoyn」 というサービスがリリースされていることを教えてもらう。日本版Rate Your Musicを目指すプロジェクトらしい。おそらく、ここ数ヶ月の音楽と批評に関する議論の延長で生まれたものなのだろう。Chooningは批評的なコンテンツを主眼に置いたものではないけれど、そういう目的でChooningを使っている人はいるだろうし、競合するところがある。

「yoyn」についてググっていたら、ほぼ同じ時期(同日?)に「Onga9」というサービスが出ているのを見つけた。こっちについては結構モロにChooningと競合している。うーむ。

これまで競合が出てきてもあまり焦るようなことはなかったのだけど、「yoyn」も「Onga9」も出来がよくて普通に焦る。たぶんエンジニアとかデザイナーの手によるものではないと思うんだけど、しかし十分にモノがいい。これがAI時代か。

いまインスタ見てたら「chelmico活動停止」って投稿が表示されて「え!?」と思った瞬間にアプリが落ちて眼の前が真っ暗になった感がすごかった

Cursorへの課金が、いよいよもって止まらない。

これまでは、月額60ドルの「Pro+」プランをベースに、足りなくなったら都度払いするという小市民的スタイルで凌いできた。しかし、現実は非情である。10ドル、また10ドルと積み重なる課金も、AIの計算資源の前では焼け石に水であった。そして今日、今週四度目となる「You've hit your usage limit」のアラートが画面に表示されたとき、嗚呼、これが年貢の納め時というものか、と僕は静かにまぶたを閉じ、「Ultra」プランへのアップデートボタンを押し込んだのであった。

月額200ドル。 今のレートならざっと32,000円。繰り返すが、毎月である。十年少し前にAdobeが月額課金になったとき、月5,000円という金額で騒いでいたのが懐かしい。デザインツールならまだしも、テキストエディタに毎月三万円を払うことになるなんて、あの頃には考えられなかっただろう。

明日からはもやしを食べてコードを書こうと思う。

数日前、Xのタイムラインに「酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話」という記事が流れてきた。これがとても面白い文章だったので、すぐにその書き手である長瀬ほのかの『わざわざ書くほどのことだ』という本をポチっておいた。

そして昨日、朝ごはん屋で玉米蛋餅をかじりながら何となく読みはじめたのだが、どのエピソードも面白すぎてそのまま一気に読み終えてしまった。その後、何人かの友人に推薦図書の連絡をすると、さっそく翌日の今日、内野功太郎から「読んだよ」と返信が来た。彼とLINEでやり取りをするうちに考えたことを、ここに書き留めておこうと思う。


僕は、子どもの頃からエッセイが好きだった。自分の読書遍歴を振り返れば、体感ではあるけれど、その半分はエッセイと雑誌で占められているはずだ。(なんと偏った読書体験だろうか。)

十代の頃に好んで読んでいたのは、椎名誠、山口瞳、伊集院静、景山民夫、つかこうへい、といった作家たちだった。こうして並べてみると、圧倒的に「大人の男性」の世界である。それも、組織や社会の枠からはみ出したところで、自分なりの美学や勝手さを貫いて生きているような、いわば無頼派的な空気に惹かれていたのだと思う。女性作家といえば、群ようこや西原理恵子(これは漫画か)を手に取るくらいだった。これもほぼ似たようなものである。

それが、どういうわけか三十歳を過ぎたあたりから、同世代の女性作家が書くものを積極的に読むようになった。最近の僕が好んで手に取るのは、藤岡みなみや小原晩といった作家たちの言葉だ。

藤岡みなみは僕の一つ上の年齢で、まさに同世代である。彼女が大学時代に出演していた『キャンパスナイトフジ』も観ていたので、あの時代の空気の中で一緒に大学生をやっていた人なのだ、という印象も強い。小原晩は僕より七つ下だから、「同世代」と呼ぶには少し離れているかもしれないが、まあいいだろう。少なくともその筆致に触れたとき、僕の中では同じ時代を歩いている感覚が確かにある。

今回読んだ長瀬ほのかも、年齢は僕の一つ上だった。本の中に出てくる話も、『どうぶつ奇想天外!』や公文の思い出、セーラームーンの人形の話など、まさに自分と同じ景色を見ながら生きてきたことが分かるエピソードばかりだった。


さて、どうして僕はこういった作家たちの言葉を好むようになったのか。その理由は、僕が彼女たちの文章の中に、もう疎遠になってしまった女友達の息づかいを感じているからではないかと思う。

高校、大学、あるいは二十代にかけて、深夜のファミレスでドリンクバーをおかわりしながら、あるいは大学近くの誰かの家で甲類の焼酎とコンビニのワインを飲みながら、一晩中話し合った友人たち。人間関係の悩み、不透明な進路、恋人のこと、無限にも思える選択肢の中から何を選び取るかという、あてのない思索。価値観というにはあまりに未完成な、お互いの自意識を差し出し合うような時間を共にした友人たち。

いつの間にか、彼女たちは結婚したり、母になったりして、僕とは日常的には交わらない時間を生きている。あんなに言葉を交わしていたのに、夜通し膝を突き合わせて話す機会なんて、もう永遠に訪れないのだろう。そこに切実な喪失感があるわけではないけれど、ふとした瞬間に、あの時間が実はどれほど贅沢で尊いものだったかを噛み締めてしまうことがある。

藤岡みなみや小原晩、そして長瀬ほのかのエッセイを読んでいると、「もし、いま三十六歳になった僕たちがあの頃のような時間を過ごしたなら、きっとこんな話をするんだろうな」と思えてくるのだ。

他人から見れば取るに足らない、けれど自分にとっては切実な出来事。その「ままならなさ」を、彼女たちはそれぞれの感覚で丁寧に言葉に変えていく。その世界の切り取り方に触れていると、まるであの頃の友人たちが、いま目の前でとりとめもない話をしてくれているかのような気持ちになる。そんな再会にも似た感覚が、いまの僕にはちょうどいいやすらぎになっているのだと思う。

台湾に来てから一週間。身体にいくつかの変化が現れはじめている。

【主な症状】

  • 指先のささくれ(3日目 夜〜)

  • 頭皮の乾燥と痒み(4日目 朝〜)

  • 顔にニキビ(5日目 朝〜)

【考えらえる原因】

食生活の変化。生野菜不足と油の過剰摂取が顕著だ。小吃店を中心の食生活をしているのだが、毎朝の蛋餅に加え、ここ三日は麻油鶏を連投している(うめえ)。さらに、街を歩けば香りに誘われ、衝動的に買い食いをしてしまう。栄養バランスだけでなく、食事のタイミングが崩れているのもよくないのかもしれない。口腔内のpHが酸性に傾いている時間も増えているので、歯の健康にも影響があると思う。

ビタミン剤を飲んでいない。日本では毎日飲んでいたのだが、持参し忘れた。そもそも気休め程度と思ってナメていたのだが、実は結構効果があったのかもしれない。ファンケルよ申し訳ない。台北で似たようなものを探してみよう。

湯船に入らない。これは大きい気がする。かつて僕はシャワーのみの生活をしていて、その頃は肌トラブルが多かったのだが、高円寺へ引っ越して近所の銭湯に通うようになり、肌質が劇的に改善した。台湾に来て再び湯船に浸かる習慣が失われた途端にこれである。お肌はデリケートだ。

やや睡眠不足。就寝時間は日本にいる時と変わらないが、仕事の開始を日本の同僚に合わせるため、時差の関係で起床が1時間早まっている。5時間睡眠が4時間になるのは、わずか1時間の差とはいえ20%の減少だ。また、この一年ほど習慣化していた昼食後30分程度の睡眠が、いろいろあってこの一週間は取れていない。そして、食後に茶を飲む習慣があり、その量が日本より圧倒的に多い。カフェインの過剰摂取のせいか、寝付きが悪いような気がする。

最近、ユーシュエンの家の近くに「罕多咖啡」という理想的なカフェを発見した。夜ご飯を食べ終わった20時くらいから閉店時間の23時半まで、ここで作業するのが日課になっている。

これまで、夜の府中駅付近でWi-Fiと電源を確保しようと思うと、選択肢はスターバックス一択だった。しかし、この辺りのスタバは21時に閉まってしまう。作業が勢いに乗ってきたところで追い出されてしまうことが多々あり、かといってその時間から台北市内に移動するのも億劫で、仕方なくユーシュエンの家に戻って回線の細いテザリングで作業をしていた。

そんな折、偶然通りがかった道で見つけたのがこの「罕多咖啡」だった。

広々とした座席に安定したWi-Fiと電源があり、作業環境としては申し分ない。スタッフの対応もつかず離れずで心地よく、行き交う客層もどこか洗練されていて、なんだか全体的に漂う空気感が心地いい。

そんな店内の上質な空気に当てられ、今夜の僕は「テラス席でMacBookを広げる外国人デザイナー」という役柄を担うことにしたのだが、これが大間違いであった。

この辺りは今日、真冬だというのに日中の最高気温が27度を記録した。どうやら、近所のボウフラたちが一斉に孵化の時を迎えたらしい。オシャレな外国人デザイナーも、産声をあげたばかりの彼らにとってはただの肉である。ふと見渡すと、店内は満席。テラス席で悦に浸っているのは、僕一人だった。

逃げ場を失った僕は、この新しい命の強烈な生への執着を、いま全身で受け止めている。

UboatとのLINE。昨夜書いた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の感想文を推敲して送る。やりとりの中で、やはり話題に上ったのは後半の大味な展開についてだ。Uboatから、「ヘイル・メアリー」がアメフト用語で「起死回生を狙ったダメ元のロングパス」を指すと教わる。


浅井とのLINE。育児に励む父親の気苦労が聞けて楽しい。僕の友人は世代的な影響もあってか、主体的に育児に関わる男性が多いが、その中でも浅井は、日々の迷いを切り捨てず、一つひとつをすくい上げて言葉に定着させる力がずば抜けている。生身の当事者として悩み、思考し続ける言葉には瑞々しさがある。


内野功太郎とのLINE。やりとりによって、Chooningを運営する中で考えているメディア論や収益モデルの採用理由を言葉にすることができた。広告モデルを採用するというプラットフォームの選択が、SNSを他者評価やバズへの渇望へと誘導し、純粋な音楽体験の言語化を阻害しているという問題意識。そして、そのゲームルールから脱却するために、主な収益源をメンバーシップモデルとし、プラットフォームはその期待に応えるという関係性の中で言論空間を統治するべき、など。

Uboatに薦められてた、アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読み終えた。

台湾に来る飛行機の中で読みはじめて、この二日間は作業の合間(=AIがプロンプトに従ってコードを吐いている待ち時間)にちょこちょこ読み進めていたのだが、今朝下巻に入ってから急激に面白くなって止められなくなってしまった。

仕事をするつもりで四十分かけて中山のカフェまで出てきたのに、結局一度もパソコンを開くことなく閉店時間を迎えた。本を読んでいるだけだったら家にいてもよかったし、もっといえば日本にいたままでもいいとすらいえる。まあそれは野暮か。「台湾にいるからやれること」を選んでやろうとするよりも、どこでもできることを、その場所でやるということに豊かさがあるのかもしれない(適当)

一月の台北は、冬であることを忘れたような強い陽射しがアスファルトを焼いている。日本の寒さから逃げてきた僕は、その気候に包まれる幸せを感じながら、ぼうっとバスを待っていた。

「おーい、そこのお兄ちゃん!」

不意に大きな声で呼びかけられた。声の主は、僕の目の前に滑り込んできた別のバスに乗り込もうとしている老婆だった。彼女の指は、彼女が買い込んだであろう荷物が縛り付けられたキャリーカートを指さしている。

早口の中国語はよく聞き取れなかったが、「帮我(=手伝って!)」というフレーズが聞こえたので、コイツをバスに運び込むのを手伝ってくれ、と言っているのだと理解する。

僕は慌てて駆け寄り、「よっこらせ」とその重荷を抱えてバスのステップを上がった。老婆が何かを早口で言う。僕が聞き取れず、すみません、もう少しゆっくり話してください、と言おうとしたとき、背後で「プシュー」という音がして、ドアが閉まってしまった。

「おいおいおい、状況を見てなかったのか? 僕が乗客なわけないだろ!?」

と思ったが、台北のバス運転手にそんな文句を言っても無駄だ。そもそも、僕にはそんなことを言える語学力もない。苦し紛れに心中で毒づいていると、バスが荒々しく動きはじめた。

台北において、最もイラついている人種はバス運転手だといわれている。彼らにとって、乗客を運ぶという行為は決して交通サービスではない。「運送業」とか「物流」といった方がしっくりくる。彼らは僕たちを乗客としてではなく、ただ効率よく運搬されるべきジャガイモか何かだと思っている節がある。

僕は諦めてポケットから悠遊カードを取り出し、精算機にタッチする。「上車!」と機械が無邪気な音声で応答し、僕が意図せぬ運命に乗り込んだことを告げた。電光掲示板を見上げると、初めて目にする停留所の名前が表示されている。どうやら知らない路線に乗ってしまったようだ。

腰のあたりで、先ほどの老婆が申し訳なさそうに何かをまくしたてている。

「あんた、本当は乗るつもりじゃなかったんだろう? 大丈夫かい?」おそらく、そんな意味のことを言っているのだろう。

僕は咄嗟に、「不會不會!」と返し、精一杯のスマイルを送った。

この言葉は、「ええねんええねん!」という感じのフレーズだが、この場面で使うべきものなのかどうかは怪しかった。それでも、彼女が何度も「謝謝、謝謝」と頭を下げる様子を見て、こちらの意思は伝わったのだと理解した。


バスはアトラクションのような激しい揺れを伴いながら、台北の街を駆けていく。

次の停留所で降りるのが賢明だが、特段急ぐ用事もない。もともと、どこか適当なカフェに行って仕事をしようと思っていただけだった。このまま予定を外れた勢いを活かし、雰囲気のよさそうな場所で降りてみるのも悪くない。

そう切り替えて車内を見渡すと、後方の座席に空席を見つけた。僕は老婆に軽く会釈をしてから、その席へと移動し、腰を下ろした。

最後方の座席から車内を眺めると、乗客たちは僕と老婆のやりとりなどまるで見ていなかったかのように、各々の世界に没入していた。

先ほどの老婆を見ると、すぐ近くに優先席が空いているにもかかわらず、金属製の柱を掴んで立ち続けていた。カートを必死に支えながら、猛烈な揺れに耐えている。

その背中を見ていて、ふと、七十代になった父が「電車で席を譲られることがあるけれど、この歳になると座ったり立ったりするのが億劫で、いっそ立っている方が楽なんだ」と話していたことを思い出した。


そういえば、横須賀に住む両親も数年前に車を手放し、今はバスに乗って日用品の買い出しに出かけているという話を聞いた。

もしかして、彼らもまた、あのような使い込まれたカートを引いて、スーパーに通っているのだろうか。そして、バスの段差を前に、重たい根菜や洗剤が詰まったカートを持ち上げようと苦労することがあるのだろうか。

田舎育ちで誰彼構わず話しかけるような父はさておき、他人の世話になることを極端に恐縮する母が、この台北の老婆のように、見知らぬ若者に助けを求める姿は想像がつかない。

窓の外を眺めると、色褪せた看板がひしめき合い、排気ガスに燻されたスクーターの群れが猛スピードでバスを追い抜いていく。紛れもない異国の景色だ。横須賀から遠く離れた街の激しく揺れるバスの最後尾で、見知らぬ老婆に親の姿を重ねているのは、なんだか不思議な気がした。


ガツン!と車体が跳ね上がり、頭を窓にぶつけそうになる。現実に引き戻された僕の視線の先では、老婆が依然として、何事もなかったかのように、バスの荒い揺れに耐えていた。

ふと、ああ、そうか、さっきの場面では「不會」ではなく「没事」と言えばよかったんだ、と気がついた。

とあるプロジェクトの打ち合わせで、「AI生成の画面デザインって、どうしてAIっぽく感じるんですかね?」と聞かれた。これは、プロダクトデザインに関わる人たちにとっては、結構いい酒のつまみになる話だと思う。


デザイナーである僕の感覚的な話になるが(専門外の人が同じ違和感を抱くかどうかは分からないが)よく感じるのは、「ただ、結果だけが立ち上がって見える」という、妙な手触りのことだと思う。

僕は、アプリケーションやWebサービスの画面を見たときに、制作者がどんな順序で考え、何を解こうとしていたのかを想像することができる。あるいは、どこがまだ詰めきれていないのか、どこで思考が止まっているかも、それなりに見抜くことができる。こだわりを感じるところや、迷いのあるところは触れば分かるし、そこに制作のプロセスが痕跡として残っているからだ。

人間のデザイナーはたいてい、何を作るのか、どう使われるのか、情報や構造はどうあるべきか、といった低いレベルの問いから順番に積み上げていく。その結果として、画面全体に一貫した思想がにじむのだが、AIが生成した画面は、第一印象はいかにもいい出来に見えるものの(余白や配色、コンポーネント単体の完成度は高い)しばらく眺めていると、この画面で何をしてほしいのか、この情報はなぜこのように置かれているのか、といった根本的な意図が不明瞭であることに気づく。

単に設計が甘い、という感じとも少し違う。人間が考えきれなかったときのような、迷いの跡がなく、判断の来歴が見えない。どこか空洞を覗き込んでいるような感触だ。


言葉にしていて気づいたが、これは「AIっぽさ」というより、「素人がAIを使って作った感じ」のことを言っているのだと思う。

デザイナーがAIを使う場合は、基礎的な設計や前提をAIとの対話の中で詰め、それを共有したうえで生成させる。そうすると、この種の空洞感はかなり薄れていく。(実際、去年の夏頃から僕が作ったものは、ほとんどそうやって作られている。)

また、「AIっぽいかどうか」は本質的な問題ではない。重要なのは、使いやすいかどうかであり、利用者にとっては制作の方法や背景よりも、目の前の体験がすべてである。利用者が支障なく使えるのであれば、専門家の目に「AIっぽさ」が映ったとしても、ひとまず問題視するべきではないだろう。

だから、僕が「AIっぽさ」を気にしているのは、そこに「使いづらさ」があるからだ。まず「使いづらさ」が先にあって、その使いづらさの原因を専門家として見たときに「これはAI生成に起因しているな」と分かってしまうために、「うーん、いかにもAIぽいですねえ」などと口走ってしまっているに過ぎない。

これは自戒も込めて書いておくのだけど、決して「AIっぽさ」そのものを問題視したいわけではないので、AI生成物をレビューするシチュエーションにおいては、それがどんなAIでどう生成されたか……といった話題にうつつを抜かさず、可及的すみやかに話題の中心を「使いづらさ」とその解決方法に移行するよう努めていきたい。

ここ数日、僕のこのブログが閲覧できない状態が続いていたようだ。

原因は、Netlifyで契約しているクレジット量(1,000クレジット)が上限に達してしまったことで、「クレジットを追加しない限りサイトは停止したままです」という通知が届いていた。なんてこった。

管理画面のCredit usage breakdownを確認すると、Production deploysで1,470クレジットを消費している。つまり、ほぼすべてがデプロイ由来の消費ということになる。1回のデプロイにつき、本番ビルド+本番CDNへの反映+メタデータ処理が走り、約15クレジットが使われている計算だ。

昨年11月にCMSをContentfulへ移行したことで、更新回数が増えたのが大きな要因だろう。Contentfulはエントリーを保存するたびにWebhookを飛ばし、Netlifyはそれを検知するたびに自動でデプロイを実行する。それが記事の微修正であっても例外ではない。

言葉を少し直すたびに15クレジットが消費されていたと考えると、これはなかなかに大ごとだ。推敲しやすい環境を手に入れたと思ったら、同時に課金が加速しやすい構造を作ってしまっていた。今さらながら、CMS × Netlifyというのはかなりマズい組み合わせであることに気がついた。

対策としてデプロイを手動に切り替える方法も考えられるが、それでは問題を解決する代わりに利便性を手放すことになる。NetlifyをやめてCloudflare Pagesを使うのがよさそうに思えるが(確か公式にHugo対応していたはず?)今度詳しく調べてみよう。

『葬送のフリーレン』アニメ2期のOPが出た。Mrs. GREEN APPLEの『lulu.』という曲なのだが、これがめちゃくちゃいい。痺れた。

これまで僕はミセスについて、「流行っているがよくわからん」という感想で、ミセスが好きだという友人に対しても釣れない態度を取っていたと思うが、本当に申し訳なかった。これを聴いて海よりも深く反省した。許してくれ。

一般論として「ミセスはタイアップ曲がよいのだ」という説はよく聞くし、年末の団地忘年会でもTaiTanが「ミセスは原作解釈力が高い」という評を述べていた(確かTaiTanだった気がする。違ったらごめんなさい)。今回、その言葉の意味がようくわかった。

1番ではフリーレンの人生観に決定的な影響を与えた勇者ヒンメルの冒険に対する価値観が歌われ、それが2番にかけて遺されたフリーレンの心情へとシームレスに続いていく。サビとして繰り返される「帰りたい場所がある」というフレーズは、立場が違う二人に共鳴する心情であり、この言葉が楽曲全体を貫くことで、二人の想いの重なりを表現する構造になっている。

『葬送のフリーレン』の物語構造は、ヒンメルにとっての「残す」という行為と、フリーレンにとっての「残ってしまう」という経験の非対称性にある。ヒンメルにとってはすでに確信として獲得されていたものが、フリーレンにとっては時間を経て初めて感情として立ち上がる。作中ではこのズレが繰り返し描かれてきた。このOPは、その構造を単にそのまま持ってくるのではなく、楽曲という異なる形式の中で再構成することができている。(単に物語のあらすじを要約して歌っただけのYOASOBI『勇者』とは大違いだ。)

もちろん、歌詞だけでなく楽曲もいい。アニメOPというよりむしろEDを思わせるようなトーンなのだが、それがなかなかハマっていると感じた。こういう本来物語の余韻を受け止めるための楽曲をあえてOPに持ち込むという方法は、ことフリーレンに関しては作品性と噛み合っていてとてもいいと思う。

ここ数日、Cursorを使ったコーディングでFlutterプロジェクトを作っているのだけど、AIを使ったコーディングの一番の恩恵は、実装と同時にドキュメントを整えていけることだと感じている。

デザイナーの頭には、実装している最中に「このコンポーネントはこういうオプションで構成されているなあ」ということが浮かぶ。例えば、スナックバーだと、(1)色:通常とエラーの2種類 (2)メッセージ:文字列 (3)サブメッセージ:文字列(なければ非表示) (4)アイコン:ファイル(なければ非表示) (5)ボタンの有無:boolean (6)ボタンのラベル:文字列 といった具合だ。

これまでだと、「うーん、あとでFigmaにまとめておくか……」と思って終わっていたのだけど、AIがあるとこういうことをポンポン喋って(音声入力して)まとめてくれというだけで仕様書に仕上げてくれる。なんなら実装も整えてくれる。まじ便利。実装でその通りになっていない箇所を見つけるのも簡単。

あと、 doc/spec/ 以下に snackbar card button tab みたいなフォルダを用意して、それぞれに spec (コンポーネントの仕様)と usage-list (どこでどう使ってるか)というファイルを作っている。( usage-list があるとデザイナーの設計作業はとてもやりやすくなる。デザインの調整はプロダクトの中の相対的な関係や、影響範囲を見渡しながら行っていくため。)

ドキュメントの保守は、コード側に「ここを変えたら、このドキュメントを更新すること」とマーキングしておくことで、AIがコード編集時に自動的に検知できる。

濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉の特別鼎談「驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」を読んだ。まだ『旅と日々』を観ていない状態でこの鼎談を覗いてしまったのだけれど、作品の内容を知ったというより、それぞれが「どうやって世界を見ようとしているのか」を知ったような感じがした。

鼎談では、物語の筋立てやテーマそのものよりも、光の入り方や、偶然写り込んだ風景、カット同士の照応といった話が何度も出てくる。何かを強く説明するというより、現場で出会ったものや、あとから意味を帯びてきた画面同士の関係性を言葉にしているのが印象的だ。

濱口竜介の『悪は存在しない』を観たときにも思ったのだが、このタイプの作品は、「何が起きるのか」よりも、鑑賞者が映像を通じて「何に気づくのか」に楽しみの中心がある。作り手の意図やメッセージがあったとしても、必ずしもそれを最も重要なものとして持ち帰る必要はない。というか、それが読み取れなくてもいいのだと思う。東浩紀的にいえば、誤配可能性の高い作品ということになるだろうか。鼎談のやりとりからも、意味が一つに回収されることを前提にせず、光や風景やカットの連なりが、別の場所に、別の仕方で届いてしまう余地を残している。正しく理解されることよりも、少しずれて届くこと、思いがけないところに引っかかることを許している感じがある。

12月18日から施行された「スマホ新法(スマートフォンにおいて利用される特定ソフトウェアに係る競争の促進に関する法律)」に関して調べていた。

ちょうど Chooning でもユーザー課金を検討しているのだけど、僕は Apple や Google に決済を任せるということも引き続き有力な選択肢だと思う。プラットフォームの決済手段を使わないとなると、自前で決済体制を構築することになるが、Stripe なり GMO なりを使うとしてもそれなりの開発工数がかかる。Apple / Google ほどではないにせよ、決済プラットフォームの手数料は発生するし、ユーザーに新たに決済手段を登録してもらうことのハードルもあると思う。

Apple / Google の手数料は、年間売上が100万ドル以下の小規模事業者であれば 15% だ。あらゆる決済手段に対応していて、カード決済手数料なども吸収してくれてこの手数料というのは、そこまで阿漕なものではないと思う。アプリ外決済は小規模事業者の枠に収まらないフェーズになってから考える、という判断でまず問題ないのではなかろうか。

朝から体調が優れずぐったりとしていた。東京では、コロナ、インフルエンザ、ノロウィルスなどが流行っているので、どこかでもらってしまったか……と滅入った気持ちでいたが、薬を飲んで数時間横になっているとアッサリ回復した。


台灣虎航(タイガーエア)から、クリスマスセールで日台全路線で格安販売を行なっているというメールが届く。この冬、台湾に行くかもしれないと話していた友人たちに転送する。僕が冬に台湾にいることが当たり前のこととして浸透し、年々それに合わせて旅程を組んでくれる友人が増えていく。


夜、新宿の香港屋台「九龍」で、すぐる、Ray、クマガイさんと近況報告。すぐると会うのは5年ぶり、Ray と会うのは半年ぶりだが、二人とも以前会ったときとは違って会社員になっていた。

Rayはポーカープレイヤーとしての活動に一区切りつけてエンジニアに戻ったという。「この10年間ひたすらトランプをやっていました」というのは、就職活動をする上でなかなか厳しく見られるものなのだ、と割と当然に思えるようなことを、ようやく発見した真理のように語っていた。来年5月に韓国・仁川のパラダイスシティに行く予定があると話すと、「全部教えるから任せてくれ」と言われる。友人のこういう言葉は心強い。


数週間のインド出張から帰ってきたばかりのクマガイさんから、現地での小話をいくつか聞く。

イベント会場の施工現場での、インド人スタッフの働き方について。計画性はあまりないが、その日その日の課題を当日中になんとかしようとする力は強い。場当たり的であることの問題は確かに多いが、それでも「なんとか形にはなる」方向に全力で進む姿勢には、それなりのよさを見いだすこともできるという。

日本であれば、トラブルが起きればその分工期が延びるが、インドでは、やり方は粗くともその日のうちに一応の完成形までは持っていく。(ただし、日本式であれば、そもそも起きなかったであろう種類のトラブルである、という但し書きもつく。)この話を聞きながら、少年ジャンプの制作体制と似ているな、と思った。毎週のアンケートに応じて瞬間最大風速を出し続けなければならず、結果が悪ければ即座にテコ入れを行う。リアクティブなものづくりのよさもあるが、中長期的な構想を実現するような作品づくりには向かない。

また、インドで日本と同じようにトラックをデコレーションする文化を見かけたが、宗教的なモチーフや花を使うなど、その方向性がかなり違ったという。装飾の目的を現地の人に尋ねると、「商売繁盛のため」と答えたそうだ。クマガイさんはそれを、日本のトラック装飾がどちらかといえば対外的な表現であるのに対し、インドのそれは内省的なモチベーションに近い、と表現していた。


帰り道、LINEを確認すると内野功太郎から、『見はらし世代』という映画を見たか? と連絡が入っていた。最近のやりとりの中で話題にした本と主題が近しいので観てみてほしいとのこと。調べてみると、関東ではほとんどの館で上映終了となっていた。

今日は台湾の冬至ということで、家で湯圓(白玉)を食べる日だとアンナから連絡が入る。夕方、鹹湯圓(湯圓入った野菜スープ)の材料を買いに高円寺の純情商店街へと繰り出した。セロリとパクチーが売り切れで、何軒か渡り歩いていると、商店街がそわそわとした師走の空気に包まれていることに気づく。ところで、日本では冬至は明日だけれど、台湾とは計算方法が違うのだろうか。

参考にしたレシピ: 冬至に食べたい白玉スープ客家鹹湯圓の作り方


鹹湯圓を煮込みながらM-1を見始める。

ファーストラウンド。エバースが強い。ネタのあと、審査員の講評を受けているときの佐々木の表情が印象的だった。緊張と高揚と安堵が混ざったような顔で、妙に色っぽく見えた。

僕は真空ジェシカを応援していたのだが、惜しくもファーストラウンド4位で敗退。導入部でガクが「車椅子テニスの選手が連続で車ネタを引いた!?」という、おそらくアドリブであろう一言を発したのだが、どうもそこからリズムが崩れてしまったように見えた。


真空ジェシカ、ヤーレンズ、あるいはヨネダ2000の敗退を見ていて、髙比良くるまの『漫才過剰考察』に書かれていた「2024年以降のM-1予測」がよぎる。お笑いファンが無意識のうちに身につけてしまった審美眼の死角を、すっと突いてくるような人たちが評価される時代になる、という予測だ。

本書の見立てによれば、M-1は、芸人を「上に見る=尊敬したがる大会」から、「下に見られる=愛される人たちが輝くような大会」へと変わっていく。その中で、「お笑いファンに人気でネタバレされている人たち」ではなく、「お笑いファンに人気がなくネタバレしていない人たち」が上がりやすくなる。加えて、その上で「ちゃんとプロフェッショナルであることが見える人たち」が評価されるだろうとのこと。

そうしてみると、たくろうの優勝は自然な結果のように思える。決して「お笑いファンに人気がない」とは言えないが、大阪で活動を続けてきたことがネタバレを防ぐように働いた、とはいうのはありそうだ。反対に、真空ジェシカやヤーレンズは、ネタバレの壁に阻まれてしまったように思う。

「考えなくていいUI」を考える

  • 「考えなくていいUI」は、ユーザーが何を次に見るべきかを判断する必要がなく、システムが注意の向け先を決めてくれるUI体験のこと(例:Slackのキャッチアップ、TikTok)。

  • こうしたUIは「タイムライン的UI」と呼べる特徴(一直線の並び、目的が完結、順序付け、優先度の制御)を持ち、人間の注意を誘導する設計になっている。

  • 一方で、自由に探索して考える「トポグラフィ的UI」には創造性や管理性の利点があり、両者のバランスがデザインで重要になる。

気鋭の経済学者グレン・ワイル氏「デジタル民主主義が世界を変える」(日経ビジネス)

  • Microsoft Researchに所属する経済学者グレン・ワイルが来日し、ブロックチェーン技術を基盤に、民主主義を再設計する思想「プルラリティー(Plurality)」を提示している。これは、デジタル技術と「多元主義」(多様性を前提に権力や意思決定を分散させる政治思想)を結びつける構想として位置づけられている。

  • プルラリティーが描く統治像は、単一のリーダーや序列を前提としない分散型自律組織(DAO)的な構造であり、「誰が決めるか」よりも「どのように合意が形成されるか」というプロセス自体を設計対象にする点に特徴がある。ここでは、デジタル技術は効率化の手段ではなく、統治の前提を書き換えるインフラとして扱われている。

  • この思想は、台湾の前デジタル担当相オードリー・タンとの協働を通じて具体化されており、台湾で運用されてきた市民参加型プラットフォーム「vTaiwan」が実例として紹介される。vTaiwanでは、市民の意見を単純な賛否に回収せず、立場ごとに可視化・整理することで、対立点と合意可能点を浮かび上がらせ、実際の政策(ウーバー規制など)につなげてきたと説明されている。

  • グレン・ワイルは、現行の米国政治を「二党対立によって多様な合意を生み出せない構造」と捉え、1人1票で勝者を決める制度そのものが、納得感や協調を阻害していると指摘する。そこで重要になるのは、多数派/少数派という二分法ではなく、関心や利害のグラデーションを制度に反映することだとされる。

  • その具体策として提案されるのが、ブロックチェーンを用いた「クアドラティックボーティング」(Quadratic Voting, QV)である。QVは、争点ごとの重要度や好悪の強度を投票に反映できる仕組みで、どこに妥協点がありうるかを可視化することを目的とする。ここでは、1人1票という既存制度を絶対視せず、投票制度自体をアップデート可能なものとして捉える姿勢が明確に示されている。

  • DXについても、単なるツール導入に終始することへの批判が語られる。生成AIを含むデジタル技術はすでに社会の構成要素であり、重要なのはツールを導入してから社会を変えるのではなく、社会の変化と技術を一体として設計し直すことだとされ、プルラリティーはそのための思想的枠組みとして提示されている。

  • 共同体モデルとして提示される「コモンズ(共有地)」では、プロジェクトや施策ごとに人々が参加し、QVなどを通じて意思表明を行いながら協働することが想定される。ここでは、アリストテレスの「全体は部分の総和に勝る」という考えや、経済学における比較優位の概念が参照され、協働そのものが価値を生む構造(スーパーモジュラリティー)が強調されている。

  • 一方で、グレン・ワイルは「群衆の英知」を無条件に称揚する立場は取らず、多様性・独立性・分散性・集約性といった条件が欠ければ、集団極性化などのノイズが生じることにも言及する。その上で、「主体性」を個人単体の属性ではなく、多様な社会的関係の中で立ち上がるものとして捉え、「Dividuals(分人)」という概念を用いながら、複数の立場のせめぎ合いが主体性の源になると説明している。

  • 企業や組織についても、会社という形態を否定するのではなく、市場では生まれない協力を可能にする「共有財を創出する場」として再定義する視点が示される。厳密な序列に依存せず、役割が重なり合いながら協働する組織像が描かれ、最終的にはAIやモデル化された意思決定プロセス(ニューラルネットワーク的な比喩を含む)によって、リーダー依存を減らす可能性にも踏み込んでいる。

  • 全体を通して、プルラリティーは完成された制度設計というより、「民主主義は常に更新されるべきものだ」という前提に立ち、技術・制度・社会を同時に再構築し続けるための思考フレームとして提示されている。

名探偵津田が「anan」表紙に、グラビアは3章構成のストーリー仕立て(お笑いナタリー)

  • ダイアンの津田篤宏が、バラエティ番組の企画から生まれたキャラクター「名探偵津田」として、12月26日発売のanan2477号の表紙を飾ることが発表された。

  • 表紙ビジュアルだけでなく、誌面内では「名探偵津田」の世界観を軸にした、全3章構成のストーリー仕立てグラビアが掲載される。各章ごとに異なるシチュエーションや演出が用意され、探偵という設定に沿った衣装や表情で物語が展開されていく構成になっている。

  • 津田本人のプライベートや素顔に焦点を当てるのではなく、あくまでキャラクターとしての「名探偵津田」を主役に据えている点がおもしろい。IP化している。

Chooning で、累計投稿数が 1,000 件を超えているユーザーを抽出した。


8,000 件を超えているのはヤバすぎる。Chooning を作ってよかったことの一つは、こういう桁違いの熱量を持った人間の存在をちゃんと示せたことだ。

100件以上投稿している人まで含めると、人数はこの10倍以上になる。毎月出ていくお金を見て、ふと、なんのためにこんなことをしているのだろう、と冷静になる瞬間もあるが、こういう人たちのタイムラインを眺めていると、まあ安いもんだな、とも思えてくる。

セブンス・ベガ『君とParadiso』


このMVのファッションとメイクのバランスが新しく感じるのだけれど、女性のメイクのことがわからないのでうまく言葉にできない。服装だけを切り取れば、COCOLULUが流行っていた頃のサーフ系ファッションのようだが、その一方でメイクは明らかに今っぽい。どこがどう今っぽいのか全然説明できないけれど……。こういうの説明してくれるチャンネルがあったら教えてほしい。

Kアリーナ横浜が世界のアリーナ観客動員数で1位に(ENCOUNT)

  • Kアリーナ横浜が、米音楽業界誌 Pollstar による世界アリーナ観客動員ランキングで世界1位を記録した。

  • 2024年11月〜2025年11月の集計期間における動員数は約205万人で、前年首位だったマディソン・スクエア・ガーデンを上回った。

  • 音楽ライブに特化した設計や高い音響評価が背景にあり、日本発のアリーナが世界的な存在感を示す結果となった。

水原一平の賭博スキャンダルが米ドラマ化決定(シネマトゥデイ)

  • ドジャース・大谷翔平選手の元通訳である水原一平の賭博スキャンダルを題材にした米テレビドラマシリーズの制作が正式に決定した。

  • 制作は米ライオンズゲート傘下のケーブル局「Starz」で行われ、『ワイルド・スピード』シリーズのジャスティン・リンが監督・共同脚本・エグゼクティブプロデューサーを務める。

  • ドラマでは水原受刑者が無職から大谷選手の通訳として注目され、やがてスポーツ界を揺るがす大スキャンダルを引き起こすまでの道のりが描かれる予定で、配信時期やキャストは未発表。

なぜ『みらい議会』はユーザーの支持を集めた?ソフトウエアが飽和する時代の「優れたUIデザイン」に必要な四つの要素(type)

  • 国会で「いまどんな法案が検討されているか」をわかりやすく伝えるプラットフォーム「みらい議会」がリリースされ、SNS上で「使いやすい」という評価が多く集まった背景を、開発を主導したエンジニア・村井謙太とデザイナー・山根有紀也へのインタビューで掘り下げている。

  • UIを「画面の見た目」ではなく「政治とのインターフェース」と捉え直し、機能要件・情報設計・トンマナ・ビジュアルを一体で設計したこと、理解度が人によって違う前提でストレスなく理解が進むインタラクションを重視したことが語られている。

  • 具体的な「わかりやすさ」の手当として、法案の一覧表示に加え、「やさしく/詳しく」切り替え、AIアシスタントによる解説、ルビ機能、議論の進捗が見えるステータス表示などを挙げ、これらは開発チーム自身が法案原文を読み解く中で感じた「つまずき」から必要性を判断した、と説明されている。

  • 「つまずき」をプロダクトに落とし込む方法として、まず作り手がファーストユーザーとして原文を読み、元官僚のメンバーから初歩的なところをレクチャーしてもらいながら理解を積み上げたこと、そこで出た疑問(結局どこがポイントか/経緯は/誰に影響があるか等)をそのまま解説の導入ポイントにしたこと、写真を先に置くなど直感的な理解の足場を作る工夫が紹介される。

  • 開発体制面では、議員・元官僚・エンジニア・デザイナーの4人が分業の線引きをせず、プロトタイプを触ってフィードバックする「気持ちをもつ会」も挟みつつ、表示速度やタップ時アニメーションなど、境目で抜け落ちやすい非機能要件まで含めて体験の継ぎ目を埋めた。

  • 「優れたUIはデジタルの外まで設計されている」という観点として、同種の機能自体は他でも作れる一方で、「みらい議会」は実世界で活動する「チームみらい」という実体が信頼の土台となっていることが特徴。ソフトウェア/情報/AIフェイクが飽和する時代には、Web上の設計と物理的な活動がハイブリッドに噛み合うことが重要だと述べられている。

CSS Masonryについて(sakupi01 blog)

  • CSS Masonryは、Pinterest型の段組みレイアウトを、JavaScriptによる配置計算ではなく、CSSのレイアウトモデルとしてネイティブに扱おうとする仕様提案で、DOM順やアクセシビリティを保ったまま、高さの異なる要素を列方向に詰めて配置することを意図している。

  • 記事では、CSS Gridは行を揃える二次元レイアウトであるがゆえにカードUIでは余白が生じやすく、Multi-columnは視覚順と読み順が乖離し、JS Masonryは再計算コストやDOM操作による保守性の問題を抱えてきた、という整理がされている。

  • その上でCSS Masonryは、「自然な視覚配置」と「構造的な正しさ」を両立できる可能性を持つ一方、配置の予測可能性や制御性が下がるというトレードオフも含んでおり、意味的な行・列を持たないカード一覧などに用途を限定して考えるべきものとして位置づけられている。

マルチネ20周年のイベントに行ってきた。出演者も来場者も懐かしい面々に会うことができた。

ここぴがimoutoidの話をして、tofubeatsが「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」をかけるとみんなが泣いて、「水星」がかかると酔っ払った出演者たちが次々と壇上に現れて、気づくとtomadが胴上げされていた。文句のない大団円だった。

帰ってきてニュースを見ると、「AKB48 20周年」ということで、前田敦子や大島優子らOGがパフォーマンスを行ったことが話題になっていた。

マルチネもAKBも、過去のある瞬間のパッケージになっていることに驚く。ということは僕の青春も文句なく過去のものなのだろう。なんてこった!

トノサマガエルはスズメバチの毒針に耐えることを解明(神戸大学)

  • 神戸大学大学院農学研究科の研究により、トノサマガエルがオオスズメバチを含むスズメバチ類を、毒針で刺されても捕食できることが実験で確認された。

  • 捕食実験では、カエルは刺された直後も捕食行動を継続し、麻痺・衰弱・死亡といった影響は観察されなかった。

  • この耐性は一時的な行動ではなく、複数個体・複数種のハチで再現されており、ハチ毒に対する生理的耐性の存在が示唆される。

  • 本研究は米国生態学会誌 Ecosphere に掲載され、捕食者と毒を持つ昆虫の進化的関係を理解する手がかりになるとされている。

Netflix、米ワーナーを11兆1600億円で買収 映画など主要部門(日本経済新聞)

  • Netflixが、米ワーナー・ブラザース・ディスカバリー(WBD)を約720億ドル(約11兆1700億円)で買収する最終契約を結んだ。対象は映画などを制作するスタジオ事業と、ケーブル局HBO、動画配信のHBOマックスで、ニュース専門局CNNなどは事前に分離され、買収対象から外れる。規制当局の審査を経て、買収完了は2027年夏ごろを見込むという。

  • ワーナーは「ハリー・ポッター」「バットマン」などを擁するハリウッド5大メジャースタジオの一角で、Netflixがメジャースタジオを自ら買収するのは初めて。記事では、この買収によってNetflixが著名な作品群を直接手に入れ、動画配信の魅力を高めるとともに、グッズ販売など周辺ビジネスの拡大も狙っていると整理されている。

  • また、ワーナーにはパラマウント・スカイダンスやコムキャストからも買収提案が出ており、パラマウント側は「Netflix有利な入札だった」と抗議し、独禁法審査の面でも自社の方が承認を得やすいと主張している。今後、法的措置を含む抵抗が起きる可能性にも触れられており、この大型買収は、成立までなお政治的・制度的な不確実性を抱えた案件として位置づけられている。

ブレワイやティアキンが、公式の時系列にうまく組み込まれていない理由について書かれた記事を読んだ。

この件に関しては、「世界をどう描くか」という「ファンタジーの哲学」が変わったということがあるように思う。

昔のゼルダでは、世界は神話そのものだった。神が世界を作り、その伝説や因果関係が、そのまま世界の秩序になっている。リンク/ゼルダ/ガノンも、キャラクターとして振る舞う前に、まず英雄/聖なる女性/魔王という元型(アーキタイプ)の役割を担っていた、という感じがする。人物性(キャラクター)よりも、役割・配役が先にある世界だ。

一方、ブレワイやティアキンの世界は、そうではない。古代文明があって、技術があって、それが崩れたり忘れられたりした結果として、いまの世界がある。世界の描き方が、「神話」から「仕組み」へと変化しているように感じる。

説明のされ方もはっきり変わっている。「昔々、神さまがやってくれた」的なものではなく、「その時代にはこういう文明があって、こういう技術があったからこうなった」と語られる世界になった。

神話は、世界を成り立たせる根拠というより、「かつてそう信じられていた物語」のような位置に下がっている。トライフォースの存在感が後退しているのも、この流れの証左といえるだろう。


【追記】 2025/12/24 23:00

この話を桃子にしたら、この動画を教えてもらった。

「M-1グランプリ2025」ファイナリスト決定(お笑いナタリー)

  • 「M-1グランプリ2025」の決勝進出者が12月4日に発表され、同日に東京・NEW PIER HALLで行われた準決勝(31組出場)を勝ち上がった9組が決まった。

  • 決勝進出は、ドンデコルテ/エバース/ヨネダ2000/豪快キャプテン/ヤーレンズ/真空ジェシカ/めぞん/ママタルト/たくろう。 

  • 過去に決勝経験のあるコンビと、今回が初の決勝進出となるコンビが混在しており、「常連の安定感」と「初進出組の勢い」が同時に見える顔ぶれ。ネタのタイプも、正統派の漫才スタイルから、構造や言葉遊びに特徴のあるタイプまで幅があり、作風の重なりが少ない構成となっている。


真空ジェシカ優勝してくれ〜〜〜〜〜〜〜!

たくろうも好き

こたつでうたた寝していたら、待ち合わせをすっぽかしてARCHの将吾さんに怒られる夢を見た。十年以上前に実際にあったことなのだけど、いまだに夢に見るとは……。

鴫原さんの夢を見た。

「おまえはいま咲け。よく『いつか咲かせるために、いまは根を張る時期だ』とか言うけどな、そんなのは後からどうとでもなる。いま咲くんだよ。桜だぞ。咲くなら桜になれ」

いかにも鴫原さんが言いそうなことで、目が覚めてしばらくしてから、おかしくなって笑ってしまった。


鴫原さんが亡くなってもう三ヶ月になる。

市川沙央のインタビューを読んだ。

ハンチバック』は、近年の芥川賞作品の中でもかなり好きな一冊なので、こうして本人のまとまった言葉を読めるのは嬉しい。芥川賞からずいぶん長い時間が経っているが、作品とは別のところで、彼女の中ではまだ終わっていない時間が続いているのだ、という当たり前のことに気づかされる。

読んでいて強く伝わってきたのは、当事者として生きている現実と、作品が「文学」として読まれるときのかたちとのあいだにある、どうしても埋まらないズレだった。ズレがあることよりも、そのズレ自体が感知されず、「なかったことにされている」ことへの苛立ちが、言葉の端々から伝わってくる。

考えてみると、文学はずっと「身体」から少し距離のある場所で語られてきたのかもしれない。作品の強度や完成度の話はされるけれど、その言葉が、どんな身体を通って書かれたのか、という話は後ろに回されがちだ。

また、インタビューでは、純文学という枠やジャンルのラベルが評価を歪める、という話も出ていた。この窮屈さは読者の側にもあると思う。小説に限らず、M-1 における「これが漫才なのか論争」も同じことだ。賞やコンテストといったプラットフォームによって、作品の言葉に触れる前に、読む側の頭の中でも枠が決まってしまう。もっと自由に読めたらいいのに、いつのまにか「正しさ」の話に引き寄せられてしまう。

Suica・PASMO、共通コード決済「teppay」 最大手PayPayに対抗(日本経済新聞)

  • JR東日本とPASMO陣営が、Suica・PASMO共通のコード決済「teppay」を導入すると発表。JR東のシステムを基盤に、モバイルSuicaは2026年秋、モバイルPASMOは27年春以降に対応する。両アプリの会員数は計約4000万人で、約7100万人を抱えるPayPayに対抗する「交通系連合」の形成が狙いだ

  • teppayはQR・バーコード決済に加え、Suica・PASMO間の送金を可能にする点が特徴。現行の電子マネー決済(上限2万円)は維持しつつ、銀行口座チャージで残高上限30万円、ビューカード連携による後払いにも対応する。専用端末が不要なコード決済を軸に、加盟店拡大とデータ活用を進め、鉄道利用と買い物を結びつけた独自サービスも検討されている。

  • 記事全体を通して浮かぶのは、国内キャッシュレスの重心が非接触のIC決済からコード決済へ完全に移ったという現状だ。交通系ICは利便性が高い一方、FeliCa端末やシステム維持のコストが地方事業者の重荷になっており、廃止や代替手段への移行も進む。teppayは、そうした構造的な逆風の中で、交通系ICを決済プラットフォームとして延命・再編しようとする試みとして位置づけられている。


「電子マネーからQRコード決済への移行」は、事業者側のコスト構造と拡張性の都合が押し出した結果であって、ユーザーの利用体験の面でいえばむしろ後退しているように思う。

FeliCa系の電子マネーはタッチするだけで瞬時に処理が完了し、利用者は「支払っている」という意識すらほとんど持たずに利用できるが、QRコード決済は、画面を開き、コードを提示し、読み取り、完了を互いに確認するという負荷が発生する。

つまり、いま起きている移行は、決してUXが優れているから置き換わっているのではなく、専用端末が不要で、加盟店を増やしやすく、データを集約しやすいという事業要件が、インターフェースの質を上書きしている状態だといえるだろう。ちなみに「Paypay」はタガログ語で女性器を意味するらしい。

ドラクエとエフエフの文化的影響を3世代で振り返る(羊谷知嘉ChikaHitujiya)

  • ドラゴンクエストとファイナルファンタジーを、単なる「名作RPG」としてではなく、それぞれの時代の受け手がどう向き合ってきたかという観点から捉え直す。作品論というより、世代論・受容史に近い立ち位置で整理されている。

  • 第1世代(主にファミコン〜スーファミ初期)では、ドラクエは発売日が社会現象になるほどの「国民的行事」として機能し、FFはハード性能や演出の進化を牽引する「技術と物語の最前線」として受け取られていた。両者は対立というより役割分担の関係にあり、RPGそのものが「みんなが同じタイミングで体験するもの」として成立していた時代だった。ゲームは娯楽である以前に、同時代性を共有する装置だった。

  • 第2世代(スーファミ後期〜PS/PS2期)に入ると、シリーズは長期化・巨大化し、体験の前提が揃わなくなっていく。初ドラクエがIIIなのかVなのか、FFがVIなのかVIIなのかで、語りの基準が大きくズレる。RPGはもはや共通言語ではなく、「自分にとっての原体験」を軸に語られるものへと変わり、懐かしさと新作への違和感が常に併存する状態が生まれる。

  • 第3世代では、そもそも「リアルタイムで触れた原体験」が存在しない層が現れる。ドラクエやFFは、遊び倒す対象というより、YouTube・SNS・批評・ミームを通じて知識として先に知る作品になっていく。ここで両シリーズは、生きた娯楽というより、日本ゲーム史を語るための参照点や文化財に近い位置へと移行している。


ゲームそのものの内容ではなく、「それがどのように語られてきたか」という文化的影響を対象にし、それを世代という単位で類型化する視点がおもしろい。世代ごとに形成されてきた集合記憶の構造を説明している。

ここでいう「世代」とは、単なる年齢区分ではなく、どのメディア環境で、どの距離感で作品やその語りに触れてきたかを示す指標として捉えるとよいだろう。ドラクエやFFが、娯楽として消費される対象から、文化として参照される存在へと性格を変えていった過程には、メディア環境の変化が下地にあるからだ。

かつて、作品の体験と語りがほぼ同時に立ち上がっていたのは、雑誌や口コミといった限られた回路の中に体験が閉じられていたためだろう。一方、現代では、解説や批評、まとめや考察といった二次言説が、体験に先行して流通しており、プレイとは別に「その作品がどう位置づけられているか」を知ることのほうが先に来る。物語やシステムそのものよりも、それをめぐって交わされてきた言葉の総体が、文化的な厚みを形づくり、そして名作は正典(カノン)化していく。


膨大な量の二次言説が蓄積・流通し、それ自体が後続世代にとってのコンテンツの入口として機能しているということについて。これはなんというか、希望を感じさせる話だなと思う。

というのも、こうした語りの束は、当時の販売本数や評価点数、ランキングといった数量的・即時的な指標を背景化することにもなると思うからだ。

何万本売れたか、どれだけ高評価だったかという事実は、歴史としては重要でも、「触れてみたい」「関わってみたい」という動機には必ずしも直結しない。Chooningのように、音楽そのものではなく、「その音楽がどんな仕方で愛され、記憶されてきたか」を流通させるプラットフォームの視点から見ると、この構造はかなり示唆的に感じられる。

現代の楽曲もまた、人々が同時に聴いていたものではなくなり、やがて再生数よりも、どんな言葉で語られ、どんな思い出に結びついているかといった情報の方が、後続の受け手にとっての入口になっていくはずだと思う。

Android、ついにAirDrop対応(PC Watch)

  • Googleは11月20日、Androidのファイル共有機能「Quick Share」をAppleの「AirDrop」と相互に連携できるようにする対応を発表し、まずはGoogle Pixel 10シリーズで利用可能にした。これにより、AndroidとiPhone/iPad/Macとの間で、追加アプリ不要でファイルを直接送受信できるようになった。

  • Quick ShareはもともとAndroidデバイス同士でローカル接続を使ってファイルを共有する仕組みで、AirDropはApple製品同士で近距離共有を実現する機能だったが、今回の対応でOS標準レベルで互換性が実現した形になる。

  • 共有時の接続は近距離無線(BluetoothやWi-Fi等)を使い、受信側のデバイスが検出されるとタップ操作で送信が完了する流れ。これまでAndroid→iPhone間では第三者アプリやクラウドを介する必要があったが、その手間が省けるようになる。

  • Googleはこの取り組みを、RCSメッセージングや不明なトラッカー検知アラートといったOS間の互換性強化施策の一環だとしている。

AIを活用したプロトタイピング、期待される効果と注意すべき課題(Nielsen Norman Group)

  • AIを用いたプロトタイピングは、ワイヤーフレームやUI案の生成、文言やレイアウトのバリエーション出しなどを短時間で行える点に強みがあり、探索フェーズのスピードと量を大きく押し上げる。特に「白紙から考える」負担を下げる用途では効果が高い。

  • 一方で、AIが生成するプロトタイプは、ユーザー課題や利用文脈への理解が浅いまま、視覚的に完成度の高いアウトプットを出しやすく、見た目に引きずられて設計判断が甘くなる危険が指摘されている。

  • 動画では、AI生成物をそのまま「解決策」として扱うのではなく、仮説を考えるための素材や比較対象として使うことが重要だと説明される。プロトタイプはあくまで検証の道具であり、完成度の高さは必須ではない。

  • また、AIを使うことで、なぜその構造・導線・要素配置になったのかという設計意図がブラックボックス化しやすく、チーム内での合意形成やレビューが難しくなる点も落とし穴として挙げられている。

  • そのため、AIを使う前提として、ユーザー課題、シナリオ、制約条件などを人間が明確に言語化しておくこと、そしてAIの出力を必ず批評・修正するプロセスを挟むことが、実務での健全な使い方として整理されている。

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