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われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国憲法「前文」(1946年公布)

しかし、自然状態ではだれもが自分の生命を守るために好き勝手なことをしており、それ故に平和が訪れない。そこには、だれもが自分の身を守ろうとするが故に、全員の身が危うくなっているという矛盾がある。

ならばどうすればよいか? この矛盾をどう解消すればよいか? ホッブズの議論は簡単だ。自分の身を守るために全員が好き勝手にしているのを、全員で止めればいい。自然が人間に与えた「何でもできるし、何をしてもよい」権利、すなわち「自然権」を放棄し、法の支配を打ち立てればよい(これを第二の自然法則と言う)。

こうして、全員で一つの国家を形成し、一つの権威に従うという社会契約の必然性が導き出される。ホッブズによれば、社会契約は、戦争状態たる自然状態を考察するなら必ずや導き出される必然的な行為なのである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

[…]

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

伊丹万作『映画春秋』(創刊号、1946年)

まず、神を特段設定していないヒトにとって、善悪は決定的なものではありません。善とは〝共同体が目指すものを促進するもの〟、悪とは〝共同体が目指すものを阻害するもの〟に結びついていることが殆どで、ひどく流動的です(一方、神を設定していれば、自ずと善悪も固定されます。キリスト教徒にとっての善悪は聖書に、イスラム教徒にとっての善悪はクルアーンに、それぞれ記されています)。

たとえば殺人。現時点の日本で殺人は悪です。ですが死刑は認められています。国家という共同体の均衡を保つための行為ならば、特定の個体を殺す行為は悪ではなくなります。

つまり、同じ行為でも、共同体にもたらす影響によっては善にも悪にもなるのです。そして、悪とみなされた場合、所属していた共同体から追放されうるのです。

朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)

しかし、ルソーの構想においては、人民が社会契約で生み出したのはあくまでも一般意志であり特定の政府ではないので、そういう話にはならない。政府は一般意志の執行のための暫定的な機関にすぎない。だから、人民はいつでもその首をすげかえることができる。ルソーははっきりと記している。「たまたま人民が世襲の政府を設ける場合、それが一家族による君主政であろうと、市民の一階級による貴族政であろうと、人民が行なったことはけっして約束ではない。それは、人民が別の統治形態をとろうという気を起こすまで、人民が統治機関に与えた仮の形態にすぎないのである」。この主張がフランス革命を準備した。

社会契約は、あくまでも個人と個人のあいだで結ばれるものであり、個人と政府のあいだで結ばれるものではない。主権は、人民の一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)

ナショナリズムは近代国家を構成する欠かせない「イズム」だが、その内実はじつはあまりない。第六章でも名前を挙げた大澤真幸が指摘するように、ナショナリズムには、自由主義や社会主義や共産主義のような哲学的な基礎が欠けている。にもかかわらず、それはふしぎなことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。ナショナリズムとはまずは情念の問題なのだとすれば、ナショナリズムに駆動された国民に対して、欲望の対象がいかに魅力を欠いているか(国家がいかに虚像で覆われているか)、欲望の実現がいかに「高くつく」 ものなのか(排外主義がいかに経済的に損になるか)、一所懸命説いたとしてもたいして効果は望めないのもまた当然のことだろう。実際に過去四半世紀、知識人たちは理知的なナショナリズム批判をあちこちで繰り返してきたが、政治的にはほとんど影響力をもつことができなかった。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)

「何か、よほどのことがあれば、人を殺してもいいという考え自体を否定することが、殺人という悪をなくすための最低条件だと思う。簡単ではないけど、目指すべきはそっちだろう。犯人のことは決して赦さないだろうけど、国家は事件の社会的要因の咎を負うべきで、無実のフリをして、応報感情に阿るのではなくて、被害者支援を充実させることで責任を果たすべきだよ。いずれにせよ、国家が、殺人という悪に対して、同レヴェルまで倫理的に堕落してはいけない、というのが、俺の考えだよ。」

平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)