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物語的時間は、過去と現在をつなぐことで、一貫性を作り出す。例えば、いま自分が成功しているのは、過去の自分の努力の賜物だ、と考える。無害なときも少なくない。けれど、本章で論じたように、過去の亡霊に取り憑かれて動けなくなることもある。過去の自分のしたこと、できなかったことが、今の自分の苦境を作っている、と思い込むとどうだろうか。現在は変えられるかもしれないのに、変更可能性を見逃してしまう。物語的時間にはリスクもあるのだ。

非物語的な精神医学アプローチについて研究しているサリー・ラサムとマーク・ピンダーは、人生を物語とすることを批判する。自己が自らの人生を語る過程で、当事者としてだけではなく、あたかも他者が自分を評価するかのような二人称的な視点を内在化する。これは一見すると自己理解の深化をもたらすかのように見えるが、同時に自己の感覚や記憶が外部の期待や社会的規範に染められるリスクがある。つまり、自己が自分自身の物語を構築する際、その物語は必然的に自己の意図や価値観だけでなく、他者からの評価というフィルターを通して再解釈されるため、真の自己がかすんでしまう可能性があるのだ。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)

しかし、むしろ、物語的に世界を理解することには危険が伴うのではないだろうか。人生を一貫した物語として描くことは、個々の経験の断片性や曖昧さを排除し、特定の解釈を人生に押し付けることになる。さらには過去を書き換え、未来を固定化する危険がある。逆にいえば、自らの人生を明確なナラティブとして語ることができない場合、人は自身の生が意味を欠いたものなのではないか? という不安にさらされることになる。

例えば、アメリカに長らく住む一人の白人男性が、移民によって就労の機会が奪われていると感じたり、性的少数者のためにばかり国家が支援を行っている──白人こそが迫害されているのだ、という物語を信じていたとして、この人が信じる物語は正しいのだろうか。もちろん、この人の苦しみはリアルであり真実である。だが、その真実の苦しみの理由として信じる物語は、フェイクであり嘘であるかもしれない。移民や性的少数者のせいではなく、巨額の富を得ている人々がさらにその富を殖やすために、アメリカの格差を放置し続けていただけかもしれない。だが、物語というものはおしなべてリアリティがありすぎて、それに反駁することが難しい点に危険があるのだ。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)