とあるプロジェクトの打ち合わせで、「AI生成の画面デザインって、どうしてAIっぽく感じるんですかね?」と聞かれた。これは、プロダクトデザインに関わる人たちにとっては、結構いい酒のつまみになる話だと思う。
デザイナーである僕の感覚的な話になるが(専門外の人が同じ違和感を抱くかどうかは分からないが)よく感じるのは、「ただ、結果だけが立ち上がって見える」という、妙な手触りのことだと思う。
僕は、アプリケーションやWebサービスの画面を見たときに、制作者がどんな順序で考え、何を解こうとしていたのかを想像することができる。あるいは、どこがまだ詰めきれていないのか、どこで思考が止まっているかも、それなりに見抜くことができる。こだわりを感じるところや、迷いのあるところは触れば分かるし、そこに制作のプロセスが痕跡として残っているからだ。
人間のデザイナーはたいてい、何を作るのか、どう使われるのか、情報や構造はどうあるべきか、といった低いレベルの問いから順番に積み上げていく。その結果として、画面全体に一貫した思想がにじむのだが、AIが生成した画面は、第一印象はいかにもいい出来に見えるものの(余白や配色、コンポーネント単体の完成度は高い)しばらく眺めていると、この画面で何をしてほしいのか、この情報はなぜこのように置かれているのか、といった根本的な意図が不明瞭であることに気づく。
単に設計が甘い、という感じとも少し違う。人間が考えきれなかったときのような、迷いの跡がなく、判断の来歴が見えない。どこか空洞を覗き込んでいるような感触だ。
言葉にしていて気づいたが、これは「AIっぽさ」というより、「素人がAIを使って作った感じ」のことを言っているのだと思う。
デザイナーがAIを使う場合は、基礎的な設計や前提をAIとの対話の中で詰め、それを共有したうえで生成させる。そうすると、この種の空洞感はかなり薄れていく。(実際、去年の夏頃から僕が作ったものは、ほとんどそうやって作られている。)
また、「AIっぽいかどうか」は本質的な問題ではない。重要なのは、使いやすいかどうかであり、利用者にとっては制作の方法や背景よりも、目の前の体験がすべてである。利用者が支障なく使えるのであれば、専門家の目に「AIっぽさ」が映ったとしても、ひとまず問題視するべきではないだろう。
だから、僕が「AIっぽさ」を気にしているのは、そこに「使いづらさ」があるからだ。まず「使いづらさ」が先にあって、その使いづらさの原因を専門家として見たときに「これはAI生成に起因しているな」と分かってしまうために、「うーん、いかにもAIぽいですねえ」などと口走ってしまっているに過ぎない。
これは自戒も込めて書いておくのだけど、決して「AIっぽさ」そのものを問題視したいわけではないので、AI生成物をレビューするシチュエーションにおいては、それがどんなAIでどう生成されたか……といった話題にうつつを抜かさず、可及的すみやかに話題の中心を「使いづらさ」とその解決方法に移行するよう努めていきたい。