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数日前、Xのタイムラインに「酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話」という記事が流れてきた。これがとても面白い文章だったので、すぐにその書き手である長瀬ほのかの『わざわざ書くほどのことだ』という本をポチっておいた。

そして昨日、朝ごはん屋で玉米蛋餅をかじりながら何となく読みはじめたのだが、どのエピソードも面白すぎてそのまま一気に読み終えてしまった。その後、何人かの友人に推薦図書の連絡をすると、さっそく翌日の今日、内野功太郎から「読んだよ」と返信が来た。彼とLINEでやり取りをするうちに考えたことを、ここに書き留めておこうと思う。


僕は、子どもの頃からエッセイが好きだった。自分の読書遍歴を振り返れば、体感ではあるけれど、その半分はエッセイと雑誌で占められているはずだ。(なんと偏った読書体験だろうか。)

十代の頃に好んで読んでいたのは、椎名誠、山口瞳、伊集院静、景山民夫、つかこうへい、といった作家たちだった。こうして並べてみると、圧倒的に「大人の男性」の世界である。それも、組織や社会の枠からはみ出したところで、自分なりの美学や勝手さを貫いて生きているような、いわば無頼派的な空気に惹かれていたのだと思う。女性作家といえば、群ようこや西原理恵子(これは漫画か)を手に取るくらいだった。これもほぼ似たようなものである。

それが、どういうわけか三十歳を過ぎたあたりから、同世代の女性作家が書くものを積極的に読むようになった。最近の僕が好んで手に取るのは、藤岡みなみや小原晩といった作家たちの言葉だ。

藤岡みなみは僕の一つ上の年齢で、まさに同世代である。彼女が大学時代に出演していた『キャンパスナイトフジ』も観ていたので、あの時代の空気の中で一緒に大学生をやっていた人なのだ、という印象も強い。小原晩は僕より七つ下だから、「同世代」と呼ぶには少し離れているかもしれないが、まあいいだろう。少なくともその筆致に触れたとき、僕の中では同じ時代を歩いている感覚が確かにある。

今回読んだ長瀬ほのかも、年齢は僕の一つ上だった。本の中に出てくる話も、『どうぶつ奇想天外!』や公文の思い出、セーラームーンの人形の話など、まさに自分と同じ景色を見ながら生きてきたことが分かるエピソードばかりだった。


さて、どうして僕はこういった作家たちの言葉を好むようになったのか。その理由は、僕が彼女たちの文章の中に、もう疎遠になってしまった女友達の息づかいを感じているからではないかと思う。

高校、大学、あるいは二十代にかけて、深夜のファミレスでドリンクバーをおかわりしながら、あるいは大学近くの誰かの家で甲類の焼酎とコンビニのワインを飲みながら、一晩中話し合った友人たち。人間関係の悩み、不透明な進路、恋人のこと、無限にも思える選択肢の中から何を選び取るかという、あてのない思索。価値観というにはあまりに未完成な、お互いの自意識を差し出し合うような時間を共にした友人たち。

いつの間にか、彼女たちは結婚したり、母になったりして、僕とは日常的には交わらない時間を生きている。あんなに言葉を交わしていたのに、夜通し膝を突き合わせて話す機会なんて、もう永遠に訪れないのだろう。そこに切実な喪失感があるわけではないけれど、ふとした瞬間に、あの時間が実はどれほど贅沢で尊いものだったかを噛み締めてしまうことがある。

藤岡みなみや小原晩、そして長瀬ほのかのエッセイを読んでいると、「もし、いま三十六歳になった僕たちがあの頃のような時間を過ごしたなら、きっとこんな話をするんだろうな」と思えてくるのだ。

他人から見れば取るに足らない、けれど自分にとっては切実な出来事。その「ままならなさ」を、彼女たちはそれぞれの感覚で丁寧に言葉に変えていく。その世界の切り取り方に触れていると、まるであの頃の友人たちが、いま目の前でとりとめもない話をしてくれているかのような気持ちになる。そんな再会にも似た感覚が、いまの僕にはちょうどいいやすらぎになっているのだと思う。

Uboatに薦められてた、アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読み終えた。

台湾に来る飛行機の中で読みはじめて、この二日間は作業の合間(=AIがプロンプトに従ってコードを吐いている待ち時間)にちょこちょこ読み進めていたのだが、今朝下巻に入ってから急激に面白くなって止められなくなってしまった。

仕事をするつもりで四十分かけて中山のカフェまで出てきたのに、結局一度もパソコンを開くことなく閉店時間を迎えた。本を読んでいるだけだったら家にいてもよかったし、もっといえば日本にいたままでもいいとすらいえる。まあそれは野暮か。「台湾にいるからやれること」を選んでやろうとするよりも、どこでもできることを、その場所でやるということに豊かさがあるのかもしれない(適当)

『利己的な遺伝子』は「人生とは目的もなく空疎なものだ」と説く本ではない! 「あまりに深い誤解」の真相をドーキンス本人が語る

https://www.hayakawabooks.com/n/n856240d87503


  • 早川書房の note に、リチャード・ドーキンスの著書 『虹の解体――世界はなぜ美しいのか』の序文の抜粋が掲載されていた。

  • 掲載されている文章は、『利己的な遺伝子』をめぐって長年向けられてきた「冷たい」「虚無的だ」といった声に対し、ドーキンス自身がその誤解を丁寧にほどき直し、科学が本来もつ「センス・オブ・ワンダー」について語る導入部にあたる。


『利己的な遺伝子』をめぐる主な誤解

  • 『利己的な遺伝子』は救いがなく、冷たく、人生を空虚にしてしまう本だ。

    • 「科学が人生を意味のないものにする」という非難は根本的に的外れ。

    • 科学がもたらすのは、むしろ センス・オブ・ワンダー(驚異・畏敬)。科学的理解は「人生を意義あるものにする」とハッキリ述べている。

  • 科学的説明は人間の希望や意味づけを無視してしまう。

    • 人間の人生の意味や希望は「宇宙の究極的運命」ではなく、もっと身近な生活や感覚に根ざしている。科学はその希望を否定しない。

    • ニュートンが虹の詩情を壊したという批判(ジョン・キーツによるニュートン批判)も誤解で、科学は美しさを破壊せず、むしろ深める(美的経験を豊かにする)ものである。


改めて『利己的な遺伝子』を読み直してみると、「ここも誤解されやすそうだな」と思う箇所がもう少し見えてきたので、そのあたりをメモっておく。先日、浅井と『利己的な遺伝子』を酒のつまみに人生論的な話し合いをしたのだが、その前にこの辺りを整理しておくべきだった。(『虹の解体』も含めて整理した上で、また話そう。)

  • 遺伝子が利己的なら、人間も利己的であるべきだ

    • 「利己的」という言葉が倫理的価値判断を帯びて聞こえるため、誤読を誘発するように思える。(“selfish gene” を “selfish human” として読んでしまう。)

    • 「利己的」は、遺伝子レベルの生存戦略を説明するための比喩であり、個々の人間の倫理や行動を「利己的に生きよ」と指示するものではない。(「利己的」はあくまで説明装置であって、規範提示・倫理的メッセージではない。)

    • むしろドーキンスは「私たちは遺伝子の利己性を理解し、それに抗うことができる」とまで書いている。

  • 人間の行動はすべて遺伝子に決定されていて、文化や自由の余地はない

    • 「遺伝子中心の視点」が「文化・倫理・自由が否定される」と誤解される。遺伝子に支配される=決定論、と短絡的に読解されているのではないか。

    • ドーキンスは繰り返し、「人間は文化・学習・倫理によって遺伝子のプログラムを乗り越える唯一の存在」と述べている。

    • 遺伝子の自己複製戦略と、人間の文化的・道徳的行動はレイヤーが異なるので、「遺伝子の利己性」と「人間の利他性・共感」は矛盾しない。むしろ両立する。