ドラクエとエフエフの文化的影響を3世代で振り返る(羊谷知嘉ChikaHitujiya)
ドラゴンクエストとファイナルファンタジーを、単なる「名作RPG」としてではなく、それぞれの時代の受け手がどう向き合ってきたかという観点から捉え直す。作品論というより、世代論・受容史に近い立ち位置で整理されている。
第1世代(主にファミコン〜スーファミ初期)では、ドラクエは発売日が社会現象になるほどの「国民的行事」として機能し、FFはハード性能や演出の進化を牽引する「技術と物語の最前線」として受け取られていた。両者は対立というより役割分担の関係にあり、RPGそのものが「みんなが同じタイミングで体験するもの」として成立していた時代だった。ゲームは娯楽である以前に、同時代性を共有する装置だった。
第2世代(スーファミ後期〜PS/PS2期)に入ると、シリーズは長期化・巨大化し、体験の前提が揃わなくなっていく。初ドラクエがIIIなのかVなのか、FFがVIなのかVIIなのかで、語りの基準が大きくズレる。RPGはもはや共通言語ではなく、「自分にとっての原体験」を軸に語られるものへと変わり、懐かしさと新作への違和感が常に併存する状態が生まれる。
第3世代では、そもそも「リアルタイムで触れた原体験」が存在しない層が現れる。ドラクエやFFは、遊び倒す対象というより、YouTube・SNS・批評・ミームを通じて知識として先に知る作品になっていく。ここで両シリーズは、生きた娯楽というより、日本ゲーム史を語るための参照点や文化財に近い位置へと移行している。
ゲームそのものの内容ではなく、「それがどのように語られてきたか」という文化的影響を対象にし、それを世代という単位で類型化する視点がおもしろい。世代ごとに形成されてきた集合記憶の構造を説明している。
ここでいう「世代」とは、単なる年齢区分ではなく、どのメディア環境で、どの距離感で作品やその語りに触れてきたかを示す指標として捉えるとよいだろう。ドラクエやFFが、娯楽として消費される対象から、文化として参照される存在へと性格を変えていった過程には、メディア環境の変化が下地にあるからだ。
かつて、作品の体験と語りがほぼ同時に立ち上がっていたのは、雑誌や口コミといった限られた回路の中に体験が閉じられていたためだろう。一方、現代では、解説や批評、まとめや考察といった二次言説が、体験に先行して流通しており、プレイとは別に「その作品がどう位置づけられているか」を知ることのほうが先に来る。物語やシステムそのものよりも、それをめぐって交わされてきた言葉の総体が、文化的な厚みを形づくり、そして名作は正典(カノン)化していく。
膨大な量の二次言説が蓄積・流通し、それ自体が後続世代にとってのコンテンツの入口として機能しているということについて。これはなんというか、希望を感じさせる話だなと思う。
というのも、こうした語りの束は、当時の販売本数や評価点数、ランキングといった数量的・即時的な指標を背景化することにもなると思うからだ。
何万本売れたか、どれだけ高評価だったかという事実は、歴史としては重要でも、「触れてみたい」「関わってみたい」という動機には必ずしも直結しない。Chooningのように、音楽そのものではなく、「その音楽がどんな仕方で愛され、記憶されてきたか」を流通させるプラットフォームの視点から見ると、この構造はかなり示唆的に感じられる。
現代の楽曲もまた、人々が同時に聴いていたものではなくなり、やがて再生数よりも、どんな言葉で語られ、どんな思い出に結びついているかといった情報の方が、後続の受け手にとっての入口になっていくはずだと思う。