TVアニメ『NEEDY GIRL OVERDOSE』公式サイト
ニディガアニメ化かーーーーーー
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『葬送のフリーレン』アニメ2期のOPが出た。Mrs. GREEN APPLEの『lulu.』という曲なのだが、これがめちゃくちゃいい。痺れた。
これまで僕はミセスについて、「流行っているがよくわからん」という感想で、ミセスが好きだという友人に対しても釣れない態度を取っていたと思うが、本当に申し訳なかった。これを聴いて海よりも深く反省した。許してくれ。
一般論として「ミセスはタイアップ曲がよいのだ」という説はよく聞くし、年末の団地忘年会でもTaiTanが「ミセスは原作解釈力が高い」という評を述べていた(確かTaiTanだった気がする。違ったらごめんなさい)。今回、その言葉の意味がようくわかった。
1番ではフリーレンの人生観に決定的な影響を与えた勇者ヒンメルの冒険に対する価値観が歌われ、それが2番にかけて遺されたフリーレンの心情へとシームレスに続いていく。サビとして繰り返される「帰りたい場所がある」というフレーズは、立場が違う二人に共鳴する心情であり、この言葉が楽曲全体を貫くことで、二人の想いの重なりを表現する構造になっている。
『葬送のフリーレン』の物語構造は、ヒンメルにとっての「残す」という行為と、フリーレンにとっての「残ってしまう」という経験の非対称性にある。ヒンメルにとってはすでに確信として獲得されていたものが、フリーレンにとっては時間を経て初めて感情として立ち上がる。作中ではこのズレが繰り返し描かれてきた。このOPは、その構造を単にそのまま持ってくるのではなく、楽曲という異なる形式の中で再構成することができている。(単に物語のあらすじを要約して歌っただけのYOASOBI『勇者』とは大違いだ。)
もちろん、歌詞だけでなく楽曲もいい。アニメOPというよりむしろEDを思わせるようなトーンなのだが、それがなかなかハマっていると感じた。こういう本来物語の余韻を受け止めるための楽曲をあえてOPに持ち込むという方法は、ことフリーレンに関しては作品性と噛み合っていてとてもいいと思う。
ブレワイやティアキンが、公式の時系列にうまく組み込まれていない理由について書かれた記事を読んだ。
この件に関しては、「世界をどう描くか」という「ファンタジーの哲学」が変わったということがあるように思う。
昔のゼルダでは、世界は神話そのものだった。神が世界を作り、その伝説や因果関係が、そのまま世界の秩序になっている。リンク/ゼルダ/ガノンも、キャラクターとして振る舞う前に、まず英雄/聖なる女性/魔王という元型(アーキタイプ)の役割を担っていた、という感じがする。人物性(キャラクター)よりも、役割・配役が先にある世界だ。
一方、ブレワイやティアキンの世界は、そうではない。古代文明があって、技術があって、それが崩れたり忘れられたりした結果として、いまの世界がある。世界の描き方が、「神話」から「仕組み」へと変化しているように感じる。
説明のされ方もはっきり変わっている。「昔々、神さまがやってくれた」的なものではなく、「その時代にはこういう文明があって、こういう技術があったからこうなった」と語られる世界になった。
神話は、世界を成り立たせる根拠というより、「かつてそう信じられていた物語」のような位置に下がっている。トライフォースの存在感が後退しているのも、この流れの証左といえるだろう。
この話を桃子にしたら、この動画を教えてもらった。
ドラクエとエフエフの文化的影響を3世代で振り返る(羊谷知嘉ChikaHitujiya)
ドラゴンクエストとファイナルファンタジーを、単なる「名作RPG」としてではなく、それぞれの時代の受け手がどう向き合ってきたかという観点から捉え直す。作品論というより、世代論・受容史に近い立ち位置で整理されている。
第1世代(主にファミコン〜スーファミ初期)では、ドラクエは発売日が社会現象になるほどの「国民的行事」として機能し、FFはハード性能や演出の進化を牽引する「技術と物語の最前線」として受け取られていた。両者は対立というより役割分担の関係にあり、RPGそのものが「みんなが同じタイミングで体験するもの」として成立していた時代だった。ゲームは娯楽である以前に、同時代性を共有する装置だった。
第2世代(スーファミ後期〜PS/PS2期)に入ると、シリーズは長期化・巨大化し、体験の前提が揃わなくなっていく。初ドラクエがIIIなのかVなのか、FFがVIなのかVIIなのかで、語りの基準が大きくズレる。RPGはもはや共通言語ではなく、「自分にとっての原体験」を軸に語られるものへと変わり、懐かしさと新作への違和感が常に併存する状態が生まれる。
第3世代では、そもそも「リアルタイムで触れた原体験」が存在しない層が現れる。ドラクエやFFは、遊び倒す対象というより、YouTube・SNS・批評・ミームを通じて知識として先に知る作品になっていく。ここで両シリーズは、生きた娯楽というより、日本ゲーム史を語るための参照点や文化財に近い位置へと移行している。
ゲームそのものの内容ではなく、「それがどのように語られてきたか」という文化的影響を対象にし、それを世代という単位で類型化する視点がおもしろい。世代ごとに形成されてきた集合記憶の構造を説明している。
ここでいう「世代」とは、単なる年齢区分ではなく、どのメディア環境で、どの距離感で作品やその語りに触れてきたかを示す指標として捉えるとよいだろう。ドラクエやFFが、娯楽として消費される対象から、文化として参照される存在へと性格を変えていった過程には、メディア環境の変化が下地にあるからだ。
かつて、作品の体験と語りがほぼ同時に立ち上がっていたのは、雑誌や口コミといった限られた回路の中に体験が閉じられていたためだろう。一方、現代では、解説や批評、まとめや考察といった二次言説が、体験に先行して流通しており、プレイとは別に「その作品がどう位置づけられているか」を知ることのほうが先に来る。物語やシステムそのものよりも、それをめぐって交わされてきた言葉の総体が、文化的な厚みを形づくり、そして名作は正典(カノン)化していく。
膨大な量の二次言説が蓄積・流通し、それ自体が後続世代にとってのコンテンツの入口として機能しているということについて。これはなんというか、希望を感じさせる話だなと思う。
というのも、こうした語りの束は、当時の販売本数や評価点数、ランキングといった数量的・即時的な指標を背景化することにもなると思うからだ。
何万本売れたか、どれだけ高評価だったかという事実は、歴史としては重要でも、「触れてみたい」「関わってみたい」という動機には必ずしも直結しない。Chooningのように、音楽そのものではなく、「その音楽がどんな仕方で愛され、記憶されてきたか」を流通させるプラットフォームの視点から見ると、この構造はかなり示唆的に感じられる。
現代の楽曲もまた、人々が同時に聴いていたものではなくなり、やがて再生数よりも、どんな言葉で語られ、どんな思い出に結びついているかといった情報の方が、後続の受け手にとっての入口になっていくはずだと思う。
『ドラクエ7』フルリメイクでは大人になった「キーファ」が登場! 仲間になって一緒に戦えるように(電ファミニコゲーマー)
アツい。アツすぎる。
僕はまさに『ドラクエ7』を小学生の頃にリアルタイムで遊んでいた世代なのだが、パーティーから離脱したキーファがそのまま物語に戻ってこないという展開を、当時ひどく悲しく感じた記憶がある。彼の不在はアイラという子孫の存在によって物語上は回収されるのだが、それでも納得しきれない感情が残っていた。キーファは裏切ったわけでも、死んだわけでもない。ただ別の時間を生きてしまった。そのことが、子どもながらにどうしようもなく残酷に感じられたのだと思う。
今回のリメイクは、単純なファンサービスを超えて、当時のプレイヤーに残されていた感情の未消化部分にあらためて手を伸ばそうとしているようにも見える。あるいは、あのとき少年だった僕がいまは大人になっている(=キーファ化している)という事実も含めて、大人キーファは僕たちが主人公やマリベルと出会い直すために用意された回路なのかもしれない。
「ゆうしゃはなぜ「ゆうしゃ」なのか?:セーブ&ロードの物語論」(遊星歯車機関)
ゲームにおけるセーブ&ロードを、単なる利便機能や中断・再開の仕組みとしてではなく、物語構造そのものを成立させている装置として捉え直そうとする試み。プレイヤーの操作の背後で、時間や選択がどのように扱われているのかが主題となっている。
セーブ&ロードによってプレイヤーは、失敗や別の分岐を経験したという「記憶」を保持したままやり直すことができる。これは物語世界の登場人物には決して許されない特権であり、結果として世界には常に複数の可能性が生じる。この非対称性こそが、プレイヤー=勇者を他のキャラクターから切り離す前提条件になっている。
この構造のもとでは、RPGにおける「選択」は不可逆な決断ではなく、何度も巻き戻され、比較され、試された末にようやく確定されるものとして位置づけ直される。ロードによって選ばれなかった世界や未来は、物語上はなかったことにされるが、それらはプレイヤーの側には記憶として残り続ける。
具体例として、「ドラゴンクエストXI」が取り上げられる。作中では、時間を巻き戻す行為そのものが物語の核心に組み込まれており、セーブ&ロード的な操作原理が、ゲーム外の都合ではなく、物語内部の出来事として表現されている点が読み解かれる。
ここから導かれるのが、「勇者とは強い存在でも、最初から正解を知っている存在でもなく、セーブ&ロードという時間操作を引き受け、結果として世界を確定させてしまう存在なのではないか」というメタ的な再定義である。勇者とは、世界の外側にある操作原理を、物語の内側で体現してしまう立場に置かれている。
勇者は、同じ状況を何度も経験し、誤りや犠牲、別の選択肢を知ったうえで、それでも最終的に一つの行動を選び取る。そのとき確定される「正史」は、無数の試行錯誤と、切り捨てられた未来の上に成立している。勇者が世界を救うという行為は、同時に他の可能性を不可逆的に閉じてしまう行為でもあるという点であり、その取り返しのつかなさこそが、RPGにおける勇者性を支えている。