KJと、鶴屋町に新しくできたスシローに行ってきた。
台湾から帰ってきて以来、回転寿司ばかり行っている。カウンターの向こうから次々に流れてくる小皿を思考停止で迎え撃ちたくなる日々が続いているのだ。

どうでもいい話だが、僕は大学生になるまで回転寿司に行ったことがなかった。
僕の両親は、回転寿司を寿司と認めていなかった。「こんなものを子どもに食べさせるなんてありえない」という、かなり強めのポリシーがあったように思う。ちなみにファミレスの類もNGだった。(そのため、僕が中学生で初めてひとり旅をしたとき、まず最初にしたことは「ファミレスに入って巨大なパフェを注文すること」だった。)
両親の頭の中では、「回転寿司 = 本物の寿司の廉価版」みたいな構図があったのだと思う。でも、実際のところ(多くの人が体験的に知っているように)回転寿司は寿司の下位互換なんかではなく、まったく別の料理であり、別の体験であり、「外食エンタメ」として独自の進化を遂げた産業でさえある。
回転寿司で回っているのは寿司ではない。寿司に擬態した何かである。これは「本物の寿司に味が劣る」という話ではなく、位相の違いだ。
江戸前寿司が食文化としての伝統を継承する場だとすれば、回転寿司は外食エンタメの革新と最適化の場である。そこに求められているのは固定化された「寿司」の質を高めることではなく、「楽しくて、ついもう一皿取りたくなる工夫」なのだ。
たとえば、回転寿司のサーモンにはチーズが当然のような顔で乗っている。軍艦にはコーンマヨやツナマヨが詰められている。タルタルソースが惜しみなく盛られたえび天や、イベリコ豚、ローストビーフ、ハンバーグ寿司なんてのも回ってくる。逆輸入されたカルフォルニアロールや、韓国料理のキンパなど、他国の料理のエッセンスが無邪気に紛れ込んでいる。メニューには唐揚げやフライドポテト、ラーメン、ハンバーガー、たこ焼きなんてのもある。祭りの屋台を眺めているような気分だ。
プリン、コーヒーゼリー、ガトーショコラ、みたらし団子、フレッシュパインなど、甘味の世界も広がっている。突如パチンコ的演出が発動し、オモチャが転がり落ちてくる。飯を食っていたらカプセルトイがもらえるのである。もはや食事という行為が拡張されている。注文はタブレット、配達は非接触の専用レーンで高速到着するなど、衛生面やユーザー体験に配慮された技術のアプリケーションとしてもかなり成熟している。これはもう近代日本の食と遊びと技術が交差した、総合アミューズメント施設といったほうがいい。そこにあるのは格式ではない。発明なのだ。
したがって、僕の両親が回転寿司を「寿司の代用品」として拒んでいたのは、たぶん的外れだった。ただ、決して頭が固い方ではなく、こうした面白さが伝わる感性はあると思うので、いつか油断しているときに回転寿司に連れ込んでやりたいと思っている。

さて、寿司をつまみながら、KJからTikTokの「#founderstory」というハッシュタグの話を聞いた。

#founderstory とは、スタートアップを立ち上げた人が「ハーイ! 私の名前はイヴァンカ。先週Googleを辞めて新しいプロダクトを立ち上げたの」「身の回りにあるこんなf**kingな課題をどうしても解決したくなったからね」「今日から100日でこの課題を解決するサービスを育てていくから、その様子をみんなにシェアしていくね〜!」みたいなノリで投稿する、マーケティングを目的とした動画コンテンツに付けられるハッシュタグのことらしい。
まだ自分でちゃんと確認したわけではないのであまり分かったフリをしないようにはしておきたいが、とりあえず僕はこれを「物語消費的なものの一形態だな」と理解した。ナラティブのスナック化だなあ、などと思う。

「AIが台頭してくる中で、『人(ニン)を売る』ことがますます重要になってくる」
「プロダクトにおける『人(ニン)の含有量』をどう増やすかなんだよ」
KJの持論には頷けるところが多い。たしかにその通りだろう。AIが機能を量産する時代には、つくった人間の顔つきや手触りが、判断材料としていっそう重要になるのだと思う。
僕はこの手の起業家の試行錯誤的ジャイアントキリング物語が大好きなので、それがたとえマーケティング用に巧妙に編集されたものであったとしても、けっこう好んで見てしまうと思う。もしKJのような友人がやっていたら、応援がてらフォローして、日々の進捗を楽しくウォッチするだろう。
ただ、それを自分がやるか(たとえばChooningのプロジェクトについて「100日間でやってみる」的な発信をするか)と問われると、たぶんやらない気がする。
僕も情報発信に無関心なわけではないし、言葉を届けようとする意志は持っているつもりだが、自分の主戦場はやはりこういうブログのような、ある程度まとまった文字量を使って、自分の考えや感覚を丁寧に差し出せる場所でやっていきたいと思っている。
これはリアルなコミュニケーションにも通じるのだけど、SNSにおける「いいね!」ボタン的な賛意や同調、それから服屋の「こちらお似合いですね!」のような、言っている内容そのものよりも会話を円滑に進めるためだけに存在している言葉をどれだけもらっても、僕はあまり心が動かない。できればもう少し時間をかけて、相手がこちらの言葉を受け取り、それを自分の思考や感覚のなかに通した上で返してくれるようなやり取りのほうが、僕にとってはずっと心地いい。
思うに、僕が大事にしたいのは、情報の交換というよりも思考の共有なのだろう。その人自身の文脈を通じて構築された返答を受け取ったとき、ようやくそこに対話が生まれている気がする。お互いの価値観や語彙、ものの見方を一時的に借り合うような、相手の頭を通してもう一度自分の言葉に出会い直す、そういうコミュニケーションのあり方が好きだ。
もちろん、反射的なリアクションが悪いわけではないし、そこにはそこにしかない温度や励ましがある。けれど、自分の感受性のあり方として、そういったもので満たされる領域はあまり多くないのだと思う。
できることなら、「僕の言葉をどう受け取ったか」を、相手の論理や感情の構造ごと見せてもらえるような、そういうやり取りの中に身を置いていたい。



