小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
Uboatに薦められていた、アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読み終えた。日本語版が出版されたのは五年前だが、先月Kindle版が出たのだ。
台湾に来る飛行機の中で読みはじめて、この二日間は作業の合間に読み進めていたのだが、今朝下巻に入ってから急激に面白くなって止められなくなり、仕事をするつもりで板橋の宿から四十分かけて中山のカフェまでやって来たのに、結局一度もパソコンを開くことなく閉店時間を迎えてしまった。
以下、雑感。
はじめに
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、本国アメリカでベストセラーを記録し、日本でも『SFが読みたい!2022年版』で海外篇1位に輝いた話題作だ。
物語は、主人公・グレースが未知の施設で目覚めるところから始まる。記憶を失い、自分の名前すら思い出せない彼は、やがて自分が地球から遠く離れた宇宙船の中にいること、そして太陽を侵食し、全人類を滅ぼそうとしている謎の生命体「アストロファージ」から世界を救うために送り出された、最後の希望であることを知る。
本作がこれほど評価されている理由は、ぶっ飛んだ設定を緻密な科学的リアリティによって説得力ある物語へと落とし込んでいる点にある……らしいが、物理や化学の教養が乏しい僕にとって、正直その辺りのことはよく分からない。
アストロファージは陽子同士を衝突させて一対のニュートリノをつくる。その反応を生じさせるには、陽子同士は、ニュートリノ二個の質量エネルギーより大きい運動エネルギーで衝突する必要がある。ニュートリノの質量から逆算すれば、陽子同士がどれくらいの速度で衝突しなければならないかがわかる。そしてその物体のなかの粒子の速度がわかれば、その温度がわかる。ニュートリノをつくれるだけの運動エネルギーを持つためには、陽子は摂氏九六・四一五度でなければならない。
こうしたガチガチの科学説明が出てくるたびに、僕は光速に近い速度でページをめくっていった。もはや僕の読書スピード自体が、特殊相対性理論による時間の遅れを発生させていたのではないかと思う。
しかし、そんな不届きな読み方をしていても仕事を忘れるほど夢中にさせてしまうのだから、この作品にはまさに強力な引力が働いているといえるだろう。
「科学者の物語」としての美しさ
おそらく、この作品で作者が最も描きたかったのは、主人公・グレースが自分の置かれた状況を解析し、紐解いていくプロセスそのものだ。何が起きているのか分からない状態から、目の前の断片的な事象を観察し、そのメカニズムや背景事情を推論していく。この「科学者」的な態度は物語の全編を貫いている。
僕はそうした理系のアカデミックな経験はないが、スマホアプリやWebサイトに触れたとき、「なんでこんな動きができるんだ?」と裏側の仕組みを読み解こうとするときの状態と似ている気がする。僕が布団でゴロゴロしながら寝ぼけた頭を捻っているのと、宇宙空間で繰り広げられる死活問題には大きな次元の違いがあると思うが、論理によって世界を解き明かしていく万能感や、対象に深く迫ることで自分の知性が研ぎ澄まされていく感覚はよく分かる。
物語の面白さが加速するのは、グレースと異星人・ロッキーの交流が始まってからだ。
物理的環境も言語体系も全く異なる二人が、科学という共通のプロトコルを介し、パズルを解くように理解を積み重ねていく。まるで、仕様書もないプログラムを、挙動だけを頼りに一つずつデバッグして、仕様を解明していくような作業だ。身体性も生存環境もまるで違う二人が、ただ科学的な知性という一点において深く同期していく様子に引き込まれ、ページをめくる手が止まらなかった。
僕がとりわけ痺れたのは、ロッキーと別れた後の危機的状況で、グレースが「ロッキーならどう考えるだろうか」と必死に思考を巡らせるシーンだ。
彼は悲しんでいるにちがいないが、いつまでも落ちこんでいるようなやつじゃない。なんとか解決法を探ろうとするだろう。彼ならなにをする? […]
オーケイ。ぼくはロッキーだ。ぼくの船は死んでしまった。アストロファージをいくらかは救えるかもしれない。タウメーバがすべて食い尽くすことはありえない、そうだろう? だからぼくの手元にはいくらかアストロファージがある。ぼくはビートルをつくれるだろうか? エリドへ送り返せるなにかをつくれるだろうか?
首をふる。それにはガイダンス・システムが必要だ。コンピュータ絡みのものが欠かせない。エリディアンの科学では無理だ。[…] もし彼が小型船をつくるつもりなら、とっくにつくって、ぼくはそのエンジンの光を見つけていたはずだ。ロッキーは仕事が早い。
ここでグレースが行っているのは、単なる状況証拠からの推論ではない。深い交流を通じて自分の中にインストールした他者の思考様式をエミュレータのように起動し、自らの思考と同期させているのだ。
「ぼくはロッキーだ」という独白は、孤独な宇宙空間における交友の集大成といえるだろう。何光年という途方もない物理的距離を超えて、二人の脳がついに一つに重なった瞬間である。
「人間」を描くことができてない物足りなさ
一方で、物語としてのテーマには、物足りなさを感じる部分も多い。
まず、主人公・グレースに突きつけられる「究極の選択」の構造についてだ。
クライマックスにおいてグレースは「地球への帰還か、友の救済か」という選択を迫られる。しかし、このとき彼は小型船ビートルズで地球を救う手立てを講じることはできる。つまり、彼が天秤にかけているのは「地球の存亡」ではなく、あくまで「自分の生存」に過ぎない。
もしこれが「地球を救うか、異星人の友を救うか」という、より絶望的な二択であったなら、物語の緊張感は一段階上のものになったはずだ。この作品の壮大なスケールを考えれば、それくらいの命題を投げかけて然るべきだと思う。
そもそも、グレースにとっての生存の可能性は、「棚ぼた」的なものであった。彼はミッションの過程で、一度自らの死を受け入れている。一度捨てたはずの命と友の救済では、真の葛藤は生まれ得ない。そこで後者を選ぶ姿を見せられても、そりゃそうだろとしか言いようがないというか、とってつけたような美談にしか感じられない。
なぜそのようなことになってしまったのか。それは、この物語の主人公が、数々の危機を乗り越えてもなお人間的成長が果たせていないことに起因する。
グレースは、アカデミアでの批判に耐えられずキャリアを捨て、教職という「安全圏(子供たちが無条件に自分を肯定してくれる聖域)」に逃げ込んだ臆病者であると、責任者ストラットから痛烈に指弾される。地球を救うミッションの参加さえも、本人の意志によるものではない。彼は最後まで教室に留まることを切望したが、ストラットの強制によって無理やり宇宙船へと押し込められたのだ。
そして、この臆病な彼の本質は、物語の結末に至ってもなお変わることがない。ラストシーン、エリドに留まり教師を続ける彼の姿は、一見すれば異星での献身的な選択に見えるかもしれないが、実際は未知の不安が残る地球への帰還を避け、再び自分を慕う教え子たちに囲まれる「安全地帯」を選んだだけに過ぎない。
エリディアンは<ヘイル・メアリー>に食料その他、必要なものを乗せ、すべて問題なく稼働することをたしかめたうえで、ぼくを地球に向けて送り出せるといってくれた。だがぼくはこれまでその申し出を受けずにいた。長い孤独な旅になるし、ついさっきまで地球が人間が住める状態なのかどうかわからなかったからだ。エリドは生まれ故郷ではないが、少なくともここには友だちがいる。
あれほどの大冒険を経てもなお、内面的な呪縛から解き放たれず、人格的な変容が見られない(この精神的停滞こそが、主人公の魅力を決定的に欠いている)。そしてスタート地点から成長のないグレースの人物像では、地球の運命を本気で天秤にかける選択に耐えられるようにできていない。
その結果、物語は彼が無理なく選べる範囲内の「程よい究極の選択」を用意するしかなかったのだ。
<ヘイル・メアリー>とグレースの関係は、「エヴァンゲリオン」と碇シンジの構図に似ている。グレースもシンジ君も、本人の意志とは無関係に、ただ「適合率が高い」という資質ゆえに、ストラットやゲンドウのような冷徹な大人によって無理やり戦場へと引きずり出される。
しかし、両者の決定的な差は内面的な変化の有無にある。シンジ君が葛藤の末に、ボロボロになりながらも世界と関わろうとする変化を見せたのに対し、グレースは最後まで「有能だが内面が変わらないキャラクター」として、心地よい居場所に残り続けているように映ってしまうのだ。
ストラットについても触れておこう。彼女も、その狂気とも取れる独裁的な行動原理が、最後まで単なる「状況設定」の域を出なかった。ここも物語としての強度が不足している点だ。
「戦争、飢饉、疫病、そして死。アストロファージはまさに黙示録よ。いまのわたしたちにあるのは<ヘイル・メアリー>だけ。どんなに小さかろうと、成功率を高める要素があるなら、わたしはどんな犠牲でも払う」
まあ、それはそうかもしれないが、だからと言ってあそこまで無茶苦茶やるか???
彼女の無茶苦茶な振る舞いの裏に、どんな絶望や狂気が潜んでいたのか。あるいは、人類の危機を救うという大義を前に個人の尊厳はどこまで毀損されてよいのか。そこに彼女自身の人間的な揺らぎはあったのか。それらが描かれないまま物語が進行するため、彼女は単に主人公を宇宙へ押し出すための装置以上の存在になることができていない。
科学的なリアリティが詳細に描けているのに対し、人間の心の動きについてはどこか表面的で、登場人物たちは記号的な役割を果たすのみである。科学的な知的興奮体験を、魂を揺さぶるような人間ドラマへと昇華させることができていない。こうしたヒューマニズムへの踏み込みの甘さこそが、本作を傑作未満に留まらせてしまっている所以だ。
(余談1)時間の話
作中、グレースが700年の寿命を持つ異星人に対して、「11日間も待てない」という感覚をうまく伝えられずにやきもきするシーンがある。このグレースのもどかしさは、『葬送のフリーレン』で描かれるエルフと人間の時間感覚のズレとも重なるところがある。
「他者との分かり合えなさ」という普遍的なテーマを扱うとき、長命種との交流は使い勝手がいいのだろう。詳しくはないけれど、古今東西にそういった物語はあると思う。(ちなみに、フリーレンはいまちょうどアニメ第二期が放送されている。ミセスのOP曲が素晴らしい。)
また、この作品は「時間の流れ方の違い」が人間同士でも起こり得ることを示している。グレースの教え子たちが、人類滅亡の危機が迫る「三十年後」という数字を聞いてポカンとするシーンだ。まだローティーンである彼らにとっての三十年後は、想像も及ばないほど遠い未来であり、それが「差し迫っている」という実感を持つことができない。
「気候学者は三〇年以内にそうなると考えている」とぼくは答えた。
生徒たちの緊張は、あっさり解けた。
「三〇年?」トランが笑いながらいった。「永遠だな!」
「それほど長くはない……」とぼくはいった。だが、一二、三歳の子どもにしてみたら、三〇年は一〇〇万年とおなじなのかもしれない。
大人と子供もまた、見ようによってはグレースとロッキーほどに(地球人と異星人ほどに)感覚差のある、別種の生き物なのだと改めて感じさせられる。寿命そのものよりも「生きてきた時間」「残された時間」の差なのかもしれない。同じ空間に生きていも、それが違えば、世界の見え方は大きく異なるのだろう。
時間が、客観的な指標ではなく、どこまでも個人的な経験であるということ。これは、特殊相対性理論的なテーマでもある。
物理学的には、時間は全宇宙で一様に流れる絶対的なものではない。観測者が置かれた状況、つまり「どのような速度で移動しているか」ということによって、その進み方は変化するとされている(たぶん)。
作中でグレースがロッキーに説明するこの物理法則は、先ほどの個体間での時間に対する意識のズレの比喩としても機能する。700年を生きるロッキーと、せいぜい100年程度しか生きられない人間。あるいは、教師であるグレースと、未来が無限に続くかのように錯覚している生徒たち。同じ「30年」や「11日間」という言葉を使っていても、前提(観測者の立場)が違えば、数字が持つ重みや手触りも変わってくる。
僕たちはそれぞれ異なる精神的慣性系の中にいて、独自の速度で時間を消費している、といえるのかもしれない。
…
特殊相対性理論。冒頭に書いたように僕はこの手の知識に疎いのだけど、この件に関してはたまたま先々週の『野球・文明・エイリアン』に出てきた話だったので、なんかスッと入ってきていろいろ考えることができた。

そういえば、時間に関する人類史を説明した『なぜ人は締め切りを守れないのか』という本を教えてくれたのもUboatだった。偶然だけど、Uboatからの推薦図書で時間について考える機会が多い。
(余談2)アメリカ人の話
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の著者・アンディ・ウィアーはアメリカ人なのだが、この作品はちょくちょくアメリカ人のロシアに対する眼差しが垣間見れるのも面白いところであった。
「ロシア人はみんな頭がおかしいんですか?」
「そうとも」彼はにっこり笑って答えた。「それがロシア人でありながら、同時にしあわせでもいられる唯一の方法だ」
当面のあいだ、事故にかんしては報道管制が敷かれていた。全世界がこのプロジェクトを──世界の救済につながる唯一の希望を──見守っている。正規と予備の科学スペシャリストが死亡したことは、いまもっとも知られてはならないことだ。ロシア人についてはいろいろいいたいこともあるだろうが、秘密を守ることにかんしては、かれらはプロだ。
アメリカ人らしさが出ているといえば、異星人と出会いながらも、結局のところ彼らを「地球人を超える知性」としては描かないところは、つくづく「らしいなあ」と思った(まあこれは僕のアメリカ人に対する偏見は多分にあるが)。
異星人が保持する高度な技術について、知性ゆえの到達ではなく、「たまたまそうした材料や環境に恵まれていたから」という設定で処理してしまうところや、彼らの知性を「驚異的な計算力や記憶力(プロシージャやストレージ)」といった機能面に限定し、本質的な「思考」においては地球人を超えるようなものではない、という設定にしてしまうあたり、アメリカ人的な自負というか、無意識の選民思想のようなものが透けていておもろい。


