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台湾に来てから一週間。身体にいくつかの変化が現れはじめている。

【主な症状】

  • 指先のささくれ(3日目 夜〜)

  • 頭皮の乾燥と痒み(4日目 朝〜)

  • 顔にニキビ(5日目 朝〜)

【考えらえる原因】

食生活の変化。生野菜不足と油の過剰摂取が顕著だ。小吃店を中心の食生活をしているのだが、毎朝の蛋餅に加え、ここ三日は麻油鶏を連投している(うめえ)。さらに、街を歩けば香りに誘われ、衝動的に買い食いをしてしまう。栄養バランスだけでなく、食事のタイミングが崩れているのもよくないのかもしれない。口腔内のpHが酸性に傾いている時間も増えているので、歯の健康にも影響があると思う。

ビタミン剤を飲んでいない。日本では毎日飲んでいたのだが、持参し忘れた。そもそも気休め程度と思ってナメていたのだが、実は結構効果があったのかもしれない。ファンケルよ申し訳ない。台北で似たようなものを探してみよう。

湯船に入らない。これは大きい気がする。かつて僕はシャワーのみの生活をしていて、その頃は肌トラブルが多かったのだが、高円寺へ引っ越して近所の銭湯に通うようになり、肌質が劇的に改善した。台湾に来て再び湯船に浸かる習慣が失われた途端にこれである。お肌はデリケートだ。

やや睡眠不足。就寝時間は日本にいる時と変わらないが、仕事の開始を日本の同僚に合わせるため、時差の関係で起床が1時間早まっている。5時間睡眠が4時間になるのは、わずか1時間の差とはいえ20%の減少だ。また、この一年ほど習慣化していた昼食後30分程度の睡眠が、いろいろあってこの一週間は取れていない。そして、食後に茶を飲む習慣があり、その量が日本より圧倒的に多い。カフェインの過剰摂取のせいか、寝付きが悪いような気がする。

最近、ユーシュエンの家の近くに「罕多咖啡」という理想的なカフェを発見した。夜ご飯を食べ終わった20時くらいから閉店時間の23時半まで、ここで作業するのが日課になっている。

これまで、夜の府中駅付近でWi-Fiと電源を確保しようと思うと、選択肢はスターバックス一択だった。しかし、この辺りのスタバは21時に閉まってしまう。作業が勢いに乗ってきたところで追い出されてしまうことが多々あり、かといってその時間から台北市内に移動するのも億劫で、仕方なくユーシュエンの家に戻って回線の細いテザリングで作業をしていた。

そんな折、偶然通りがかった道で見つけたのがこの「罕多咖啡」だった。

広々とした座席に安定したWi-Fiと電源があり、作業環境としては申し分ない。スタッフの対応もつかず離れずで心地よく、行き交う客層もどこか洗練されていて、なんだか全体的に漂う空気感が心地いい。

そんな店内の上質な空気に当てられ、今夜の僕は「テラス席でMacBookを広げる外国人デザイナー」という役柄を担うことにしたのだが、これが大間違いであった。

この辺りは今日、真冬だというのに日中の最高気温が27度を記録した。どうやら、近所のボウフラたちが一斉に孵化の時を迎えたらしい。オシャレな外国人デザイナーも、産声をあげたばかりの彼らにとってはただの肉である。ふと見渡すと、店内は満席。テラス席で悦に浸っているのは、僕一人だった。

逃げ場を失った僕は、この新しい命の強烈な生への執着を、いま全身で受け止めている。

一月の台北は、冬であることを忘れたような強い陽射しがアスファルトを焼いている。日本の寒さから逃げてきた僕は、その気候に包まれる幸せを感じながら、ぼうっとバスを待っていた。

「おーい、そこのお兄ちゃん!」

不意に大きな声で呼びかけられた。声の主は、僕の目の前に滑り込んできた別のバスに乗り込もうとしている老婆だった。彼女の指は、彼女が買い込んだであろう荷物が縛り付けられたキャリーカートを指さしている。

早口の中国語はよく聞き取れなかったが、「帮我(=手伝って!)」というフレーズが聞こえたので、コイツをバスに運び込むのを手伝ってくれ、と言っているのだと理解する。

僕は慌てて駆け寄り、「よっこらせ」とその重荷を抱えてバスのステップを上がった。老婆が何かを早口で言う。僕が聞き取れず、すみません、もう少しゆっくり話してください、と言おうとしたとき、背後で「プシュー」という音がして、ドアが閉まってしまった。

「おいおいおい、状況を見てなかったのか? 僕が乗客なわけないだろ!?」

と思ったが、台北のバス運転手にそんな文句を言っても無駄だ。そもそも、僕にはそんなことを言える語学力もない。苦し紛れに心中で毒づいていると、バスが荒々しく動きはじめた。

台北において、最もイラついている人種はバス運転手だといわれている。彼らにとって、乗客を運ぶという行為は決して交通サービスではない。「運送業」とか「物流」といった方がしっくりくる。彼らは僕たちを乗客としてではなく、ただ効率よく運搬されるべきジャガイモか何かだと思っている節がある。

僕は諦めてポケットから悠遊カードを取り出し、精算機にタッチする。「上車!」と機械が無邪気な音声で応答し、僕が意図せぬ運命に乗り込んだことを告げた。電光掲示板を見上げると、初めて目にする停留所の名前が表示されている。どうやら知らない路線に乗ってしまったようだ。

腰のあたりで、先ほどの老婆が申し訳なさそうに何かをまくしたてている。

「あんた、本当は乗るつもりじゃなかったんだろう? 大丈夫かい?」おそらく、そんな意味のことを言っているのだろう。

僕は咄嗟に、「不會不會!」と返し、精一杯のスマイルを送った。

この言葉は、「ええねんええねん!」という感じのフレーズだが、この場面で使うべきものなのかどうかは怪しかった。それでも、彼女が何度も「謝謝、謝謝」と頭を下げる様子を見て、こちらの意思は伝わったのだと理解した。


バスはアトラクションのような激しい揺れを伴いながら、台北の街を駆けていく。

次の停留所で降りるのが賢明だが、特段急ぐ用事もない。もともと、どこか適当なカフェに行って仕事をしようと思っていただけだった。このまま予定を外れた勢いを活かし、雰囲気のよさそうな場所で降りてみるのも悪くない。

そう切り替えて車内を見渡すと、後方の座席に空席を見つけた。僕は老婆に軽く会釈をしてから、その席へと移動し、腰を下ろした。

最後方の座席から車内を眺めると、乗客たちは僕と老婆のやりとりなどまるで見ていなかったかのように、各々の世界に没入していた。

先ほどの老婆を見ると、すぐ近くに優先席が空いているにもかかわらず、金属製の柱を掴んで立ち続けていた。カートを必死に支えながら、猛烈な揺れに耐えている。

その背中を見ていて、ふと、七十代になった父が「電車で席を譲られることがあるけれど、この歳になると座ったり立ったりするのが億劫で、いっそ立っている方が楽なんだ」と話していたことを思い出した。


そういえば、横須賀に住む両親も数年前に車を手放し、今はバスに乗って日用品の買い出しに出かけているという話を聞いた。

もしかして、彼らもまた、あのような使い込まれたカートを引いて、スーパーに通っているのだろうか。そして、バスの段差を前に、重たい根菜や洗剤が詰まったカートを持ち上げようと苦労することがあるのだろうか。

田舎育ちで誰彼構わず話しかけるような父はさておき、他人の世話になることを極端に恐縮する母が、この台北の老婆のように、見知らぬ若者に助けを求める姿は想像がつかない。

窓の外を眺めると、色褪せた看板がひしめき合い、排気ガスに燻されたスクーターの群れが猛スピードでバスを追い抜いていく。紛れもない異国の景色だ。横須賀から遠く離れた街の激しく揺れるバスの最後尾で、見知らぬ老婆に親の姿を重ねているのは、なんだか不思議な気がした。


ガツン!と車体が跳ね上がり、頭を窓にぶつけそうになる。現実に引き戻された僕の視線の先では、老婆が依然として、何事もなかったかのように、バスの荒い揺れに耐えていた。

ふと、ああ、そうか、さっきの場面では「不會」ではなく「没事」と言えばよかったんだ、と気がついた。

濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉の特別鼎談「驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」を読んだ。まだ『旅と日々』を観ていない状態でこの鼎談を覗いてしまったのだけれど、作品の内容を知ったというより、それぞれが「どうやって世界を見ようとしているのか」を知ったような感じがした。

鼎談では、物語の筋立てやテーマそのものよりも、光の入り方や、偶然写り込んだ風景、カット同士の照応といった話が何度も出てくる。何かを強く説明するというより、現場で出会ったものや、あとから意味を帯びてきた画面同士の関係性を言葉にしているのが印象的だ。

濱口竜介の『悪は存在しない』を観たときにも思ったのだが、このタイプの作品は、「何が起きるのか」よりも、鑑賞者が映像を通じて「何に気づくのか」に楽しみの中心がある。作り手の意図やメッセージがあったとしても、必ずしもそれを最も重要なものとして持ち帰る必要はない。というか、それが読み取れなくてもいいのだと思う。東浩紀的にいえば、誤配可能性の高い作品ということになるだろうか。鼎談のやりとりからも、意味が一つに回収されることを前提にせず、光や風景やカットの連なりが、別の場所に、別の仕方で届いてしまう余地を残している。正しく理解されることよりも、少しずれて届くこと、思いがけないところに引っかかることを許している感じがある。

朝から体調が優れずぐったりとしていた。東京では、コロナ、インフルエンザ、ノロウィルスなどが流行っているので、どこかでもらってしまったか……と滅入った気持ちでいたが、薬を飲んで数時間横になっているとアッサリ回復した。


台灣虎航(タイガーエア)から、クリスマスセールで日台全路線で格安販売を行なっているというメールが届く。この冬、台湾に行くかもしれないと話していた友人たちに転送する。僕が冬に台湾にいることが当たり前のこととして浸透し、年々それに合わせて旅程を組んでくれる友人が増えていく。


夜、新宿の香港屋台「九龍」で、すぐる、Ray、クマガイさんと近況報告。すぐると会うのは5年ぶり、Ray と会うのは半年ぶりだが、二人とも以前会ったときとは違って会社員になっていた。

Rayはポーカープレイヤーとしての活動に一区切りつけてエンジニアに戻ったという。「この10年間ひたすらトランプをやっていました」というのは、就職活動をする上でなかなか厳しく見られるものなのだ、と割と当然に思えるようなことを、ようやく発見した真理のように語っていた。来年5月に韓国・仁川のパラダイスシティに行く予定があると話すと、「全部教えるから任せてくれ」と言われる。友人のこういう言葉は心強い。


数週間のインド出張から帰ってきたばかりのクマガイさんから、現地での小話をいくつか聞く。

イベント会場の施工現場での、インド人スタッフの働き方について。計画性はあまりないが、その日その日の課題を当日中になんとかしようとする力は強い。場当たり的であることの問題は確かに多いが、それでも「なんとか形にはなる」方向に全力で進む姿勢には、それなりのよさを見いだすこともできるという。

日本であれば、トラブルが起きればその分工期が延びるが、インドでは、やり方は粗くともその日のうちに一応の完成形までは持っていく。(ただし、日本式であれば、そもそも起きなかったであろう種類のトラブルである、という但し書きもつく。)この話を聞きながら、少年ジャンプの制作体制と似ているな、と思った。毎週のアンケートに応じて瞬間最大風速を出し続けなければならず、結果が悪ければ即座にテコ入れを行う。リアクティブなものづくりのよさもあるが、中長期的な構想を実現するような作品づくりには向かない。

また、インドで日本と同じようにトラックをデコレーションする文化を見かけたが、宗教的なモチーフや花を使うなど、その方向性がかなり違ったという。装飾の目的を現地の人に尋ねると、「商売繁盛のため」と答えたそうだ。クマガイさんはそれを、日本のトラック装飾がどちらかといえば対外的な表現であるのに対し、インドのそれは内省的なモチベーションに近い、と表現していた。


帰り道、LINEを確認すると内野功太郎から、『見はらし世代』という映画を見たか? と連絡が入っていた。最近のやりとりの中で話題にした本と主題が近しいので観てみてほしいとのこと。調べてみると、関東ではほとんどの館で上映終了となっていた。

Netflix、米ワーナーを11兆1600億円で買収 映画など主要部門(日本経済新聞)

  • Netflixが、米ワーナー・ブラザース・ディスカバリー(WBD)を約720億ドル(約11兆1700億円)で買収する最終契約を結んだ。対象は映画などを制作するスタジオ事業と、ケーブル局HBO、動画配信のHBOマックスで、ニュース専門局CNNなどは事前に分離され、買収対象から外れる。規制当局の審査を経て、買収完了は2027年夏ごろを見込むという。

  • ワーナーは「ハリー・ポッター」「バットマン」などを擁するハリウッド5大メジャースタジオの一角で、Netflixがメジャースタジオを自ら買収するのは初めて。記事では、この買収によってNetflixが著名な作品群を直接手に入れ、動画配信の魅力を高めるとともに、グッズ販売など周辺ビジネスの拡大も狙っていると整理されている。

  • また、ワーナーにはパラマウント・スカイダンスやコムキャストからも買収提案が出ており、パラマウント側は「Netflix有利な入札だった」と抗議し、独禁法審査の面でも自社の方が承認を得やすいと主張している。今後、法的措置を含む抵抗が起きる可能性にも触れられており、この大型買収は、成立までなお政治的・制度的な不確実性を抱えた案件として位置づけられている。